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金管五重奏 組曲「ブルレスケ」V. ピエロ

金管五重奏 組曲「ブルレスケ」 変ロ長調 TWV 55:B8
Ouverture Suite Burlesque in B-Flat Major, TWV 55:B8
V. Pierrot. Viste ピエロ

編成はTp.2本、Hn.、Tbn.またはEup.、Tubaです。
クラリネット五重奏、木管五重奏、サックス五重奏にも変更可能です。

ドイツ・バロック期の名曲をコンサート・ピースに、ぜひどうぞ。

金管五重奏 組曲「ブルレスケ」 変ロ長調 TWV 55:B8
Ouverture Suite Burlesque in B-Flat Major, TWV 55:B8
V. Pierrot. Viste ピエロ

編成はTp.2本、Hn.、Tbn.またはEup.、Tubaです。
クラリネット五重奏、木管五重奏、サックス五重奏にも変更可能です。

ドイツ・バロック期の名曲をコンサート・ピースに、ぜひどうぞ。

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https://animato.official.ec/

参考音源
https://youtu.be/t1GlnPF1GjE

アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

I. Ouverture 序曲
8曲にわたる組曲「ブルレスケ」の序曲です。「ブルレスケ=バーレスク(Burlesque)」とは、
有名な作品を風刺したり、その作品のテーマをこっけいに描いたりする
文学・戯曲・音楽のジャンルです。しばしばパロディやパスティーシュと言い換えられ、
読み手(あるいは聞き手)に高い教養が求められるジャンルといえるでしょう。
文学や戯曲ジャンルとしての「バーレスク」という言葉は17世紀後半から用いられ、
その後アメリカにおいてバラエティ・ショーの形式による見世物を指すようになりました。

近年、バーレスクという言葉を頻繁に耳にするようになったのは、やはり映画『バーレスク』の影響でしょう。
映画『バーレスク』はクリスティーナ・アギレラが映画初主演を務めるということで話題を呼び、
アギレラのカッコイイ歌声とダンスは全世界を魅了しました。
映画『バーレスク』のような華やかなショーガールが出演するアメリカ式のバーレスクは、
1860年代から1940年代にかけて人気を博しました。

II. Scaramouches スカラムーシュ
スカラムーシュ(Scaramouche、本名:チベリオ・フィオレッリ、Tiberio Fiorelli、Fiorilliとも。1608 - 1694)は、イタリア、フランスの喜劇役者です。
17世紀フランスにおいて、最も有名な喜劇役者の1人でした。彼の演技はモリエールにも影響を与えたと伝えられています。
スカラムーシュ【(フランス)Scaramouche】 とはイタリアの即興喜劇(コメディア‐デラルテ)の
道化役です。黒い衣装をつけ、ほらをふき、空いばりする臆病者です。
17世紀の名優フィオリリによって完成された役柄です。
2歳のルイ14世とのエピソードが次のように伝えられています。
スカラムーシュが2歳になる王太子の部屋に伺候したとき、泣きわめく王太子を持て余すアンヌ・ドートリッシュに、幼児をなだめる許可を得て、
スカラムーシュは、なんともおかしなしかめ面や顔つきを王太子にして見せたので、誰にもまねできないそのしぐさに王太子は泣き止んだだけでなく、
笑い出してしまった。その挙句、こんなに滑稽な場面で、王妃様が大変お喜びになったせいか、
王太子はスカラムーシュの手と衣服にお漏らしをしてしまわれた。おかげで王妃をはじめ、
その部屋に居合わせた貴婦人も貴族も皆が大笑いしたのでした。
このころスカラムーシュは32、3歳でしたが、宮廷に伺候するたびに王太子のもとへ参上するよう命令を受け、
王太子をこよなく楽しませたので、王太子も大いに彼を気に入られ、その後イタリアから喜劇役者たちを呼ばれるときには
必ずスカラムーシュに声がかかったのでした。

III. Harlequinade ハーレクイネード
Harlequinade(ハーレクイネード)とは、ハーレクイン(Harlequin)が主役の無言劇を意味します。
ペドロリーノの後身である,ゆるい白い服に白塗りのピエロ(19世紀パリでドビュローが有名にした〈悲しき道化〉)。
逆にイギリスでは,19世紀初頭クリスマス・パントマイム(別名ハーレクイネードharlequinade)で活躍した名クラウン,
グリマルディのグロテスクな衣装と化粧。そして彼の影響を受けたおなじみの赤いつけ鼻のサーカス・クラウン。

IV. Colombine. Con Grave コロンバイン
イタリアのコロンバイン、コロンバインは、1530年頃にイタリアのコメディア・デラルテで生意気で巧妙な使用人の少女として生まれた
演劇のキャラクターとして知られています。 彼女のイタリア語の名前は「LittleDove」を意味します。 
彼女の衣装には帽子とエプロンが含まれていましたが、コメディアマスクはめったになく、通常はトスカーナ語で話していました。 
フランスの劇場では、キャラクターは女性のメイドで興味深くなり、カサンドレ、パンタロン(パンタルーン)、ハーレクイン、ピエロとは反対の
さまざまな役割を果たしました。 ブリティッシュコメディーでは、彼女は通常、パンタロンの娘またはその類であり、ハーレクインに恋をしていました。 
20世紀のミュージカルコメディのスーブレットは、コロンバインのキャラクターのバージョンです。

V. Pierrot. Viste ピエロ
ピエロとは西洋の道化役の一種。原型はルネサンス期のイタリアの即興喜劇コメディア・デラルテの、のろまでずうずうしい居候の道化役ペドロリーノ。
17世紀後半にパリのイタリア人劇団によってフランス化され、白いだぶだぶの衣装を着て顔を白塗りにし、
男子名ピエールの愛称を名のってボードビルやバレエで活躍しました。19世紀にはパントマイムの名優ドビュローがこの役柄をさらに洗練して、
まぬけだが繊細なロマンチストで恋に悩み哀愁に満ちたピエロ像を完成させました。
またサーカスでは、より活動的な役柄であるプルチネッラやアルレッキーノの要素が加えられ、イギリスのクラウンとも混ざり合って、
ひだ付きの襟飾りと目や口の周りの赤い化粧が強調された道化となりました。そのいずれもが多くの作家や画家の題材にもなり、典型として定着し、
その伝統はジャン・ルイ・バローやマルセル・マルソーによって現代に伝えられています。
また,無声映画のチャップリンや現代のパントマイム,バレエに受継がれ,また,しばしば絵画や音楽の題材となっています。
人前で、こっけいな振る舞いをする人。笑いものになるだけの人を指す言葉としても用いられています。

VI. Menuet 1 - Menuet 2 二つのメヌエット
この二つのメヌエットは楽しげな曲に挟まれた3拍子の舞曲で、どちらか一方を演奏するように指示があります。
メヌエットは 「ミニ」 という言葉から派生して付けられた名前です。
メヌエットとは3拍子の踊りのための曲で、メヌエットが流行した17世紀に踊っていた人は、身に付けていた帽子やカツラが落ちないように、
小さなステップをせわしくこまめに踏みながら踊っていました。そこで「小さい」を意味する “mini (ラテン語起源)/menu (フランス語起源)”、
そして“-etto/-et”を付けて 、「メヌエット」と名づけられました。
メヌエットは、みんなではしゃぐために踊られていた「ブランル」という踊りに起源を持つといわれています。
その踊りがだんだんと上流階級で人気が高まり、流行に敏感だったフランスの王様ルイ14世(1643?1715)が好んで踊り、有名になりました。
ルイ14世は、毎晩寝る前にメヌエットを12曲踊る というのを日課にしていました。メヌエットとは小さなステップが多く、1曲だけでなかなか息切れしてしまいます。
ルイ14世はそれを毎日12曲も踊っていましたから驚きです。
メヌエットの音楽そのものは優雅に聴こえますが、その踊りは大変ハードなものだったようです。

VII. Mezzetin en Turc メズタン トルコ風に
「メズタン」とはイタリアのコンメディア・デッラルテという即興仮面喜劇の有名なキャラクターであり、
パリのステージで定着したものです。ストックキャラクターのブリゲーラ(道化)の一変型であると考えられています。
メズタンは16世紀に初めて登場します。
おせっかい好きで不正直、そして報われない恋に心を痛める役柄でした。
メズタンは熟達した策士でトラブルメーカーであり、必要とあらば暴力行為を犯すこともありますが、
概してブリゲーラに比べ穏やかで、特に晩年は寛大で洗練された性格でした。
多くの場合、メズタンは音楽好きで、歌と踊りがとても得意です。その時々で彼のキャラクターは大きく異なり、
忠実な使用人の時もあれば、主人の失墜をたくらんでいたり、うそつきの夫の時もあれば、妻にだまされることもあります。
また、ブリゲーラよりも女性への関心が強く、時にはナンパする姿も見られます。
この終曲はテレマンお得意の民族色豊かな、トルコ風の曲となっています。

ドイツ・バロック期最大の人気を誇った作曲家、ゲオルク・フィリップ・テレマン[1681-1767]の音楽の明快さは、
その実生活の多彩をきわめた華やかさと密接に関わっているとはよく指摘されるところです。
 テレマンは12歳でオペラを作曲するほどの早熟な天才でしたが、ライプツィヒ大学では法学を学び、
同時に聖トマス教会では礼拝用の音楽も作曲、さらにはオペラの作曲もおこない、学内ではオケを組織し、
新教会のオルガニスト兼音楽監督に就任するなど、キャリアの最初から実にマルチな活躍ぶりでした。
 23歳のときにはプロムニッツ伯爵の宮廷楽長に就任し、伯爵の好みでもあるフランス風な管弦楽組曲を数多く作曲、
伯爵の避暑地ではポーランド系の民俗音楽やジプシー音楽に接して大いに刺激を受けます。
 27歳の時にはアイゼナハの宮廷楽長に赴任し、宮廷礼拝堂楽団を組織し、カンタータ・チクルスなどで君主の厚遇を得ますが、
31歳の年にはこうした宮廷生活に別れを告げ、帝国自由都市フランクフルト・アム・マインの教会の楽長に就任。
さらに9年後、40歳の年には、終生の活動の地となるハンザ自由都市ハンブルクに移って、その後46年間に渡って、
都市音楽監督兼ヨハネスカントールとして、オペラに公開コンサート、教会音楽や自作の出版にと縦横無尽に活躍したということです。
 テレマンの創作の背景にあったのは、当初は宮廷であり、やがて市民社会に変わっていくということですが、
そうした市民社会の豊かな音楽環境があればこそ、『ターフェルムジーク』のような画期的な作品も登場したのでしょう。
 作風も変化しています。宮廷では対位法やフランス趣味を意識していたテレマンも、市民社会に出てからは、
より自由な音楽を志向するようになり、数多くの楽器奏法にも精通していたという特技を生かして実に多彩な音楽を書き上げていきます。

アトリエ・アニマート
https://animato-jp.net/

  2021/02/01   animato
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