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2024年06月

金管五重奏 ニューオリンズ・ブルース

金管五重奏 ニューオリンズ・ブルース
ジェリー・モートン作曲
"New Orleans Blues" (1925)
Jelly Roll Morton

編成はTp.2本、Hn.、Tbn.またはEup.、Tubaです。
木管五重奏、サックス五重奏、クラリネット五重奏、鍵盤打楽器とコントラバス三重奏版は発売中です。
20世紀初頭を飾ったジャズを、ぜひお楽しみください。

金管五重奏 ニューオリンズ・ブルース
ジェリー・モートン作曲
"New Orleans Blues" (1925)
Jelly Roll Morton

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アトリエ・アニマート・ショップ
https://animato.official.ec/

参考音源
https://youtu.be/tfZ9UyGU3Pk

Youtubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCbc_7CUTWTYOuyu_WQcflxQ

アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

"New Orleans Blues" は、ジェリー・ロール・モートンが1925年に作曲したピアノ独奏曲です。
この曲は、モートンの代表曲の一つであり、ニューオーリンズのジャズを象徴する曲として知られています。

曲調
"New Orleans Blues" は、12小節のブルース進行に基づいています。モートンは、このシンプルな進行に
様々なバリエーションを加えています。
"New Orleans Blues" は、非常に難易度の高い曲です。演奏には、高度な技巧が必要となります。

評価
"New Orleans Blues" は、モートンの代表曲の一つであり、ジャズピアノの難曲として知られています。
多くのピアニストがこの曲に挑戦していますが、完璧に演奏できる者は少ないと言われています。

この曲は、モートンの演奏技術だけでなく、作曲家としての才能も示しています。
彼は、複雑なリズムとメロディーを組み合わせることで、非常に独創的な作品を生み出すことに成功しました。

詳細解説

1. 曲の構成
"New Orleans Blues" は、32小節からなるAメロとBメロの2つのセクションから構成されています。

Aメロ
Aメロは、12小節のブルース進行に基づいています。モートンは、このシンプルな進行に様々なバリエーションを加えています。

Bメロ
Bメロは、Aメロよりも速いテンポで演奏されます。このセクションでは、モートンはさらに技巧的な演奏を披露しています。

2. モートンの演奏
"New Orleans Blues" は、モートンの演奏技術の高さを見せつける曲です。
彼は、この曲で力強いタッチと正確なタイミングで演奏し、聴衆を魅了します。

モートンの演奏は、非常にエネルギッシュで、聴いている人を飽きさせません。
彼は、曲の様々な要素を強調することで、曲にドラマティックな効果を与えています。

3. ジャズピアノにおける "New Orleans Blues" の位置づけ
"New Orleans Blues" は、ジャズピアノの難曲として知られています。
"New Orleans Blues" は、ジャズピアノの歴史において重要な位置を占める曲です。
この曲は、後のピアニストたちに大きな影響を与え、ジャズピアノの技術の発展に貢献しました。

5. 現代における "New Orleans Blues"
"New Orleans Blues" は、現代でも多くのピアニストによって演奏されています。
この曲は、ジャズピアノの技術を磨くための練習曲としてよく使われます。

また、ジャズコンサートやジャズフェスティバルでも演奏されることがあります。
"New Orleans Blues" は、聴衆を魅了する力を持つ、非常に魅力的な曲です。

6. "New Orleans Blues" を演奏する際の注意点
"New Orleans Blues" は、非常に難易度の高い曲です。演奏する際には、以下の点に注意する必要があります。

十分な練習をする
正確なタイミングで演奏する
力強いタッチで演奏する
曲の様々な要素を強調する
これらの点に注意することで、"New Orleans Blues" をより魅力的に演奏することができます。

43小節目に指示のあるStomp とは、主に以下の意味を持つ英語の単語です。

1. 足踏みをする
怒りや不満を表現するために足踏みをする
音楽のリズムに合わせて足踏みをする
何かを力強く踏みつける

2. ダンスの一種
ジャズやブルースなどの音楽に合わせて踊るダンス
激しいステップと足踏みを特徴とするダンス

3. 勢いよく歩く
力強く、速く歩く
どたどた歩く

4. 突然現れる
突然、思いがけなく現れる
どかっと現れる

5. 圧倒する
相手を圧倒する
勝利を収める

6. 踏みつける
足で踏みつける
つぶす

7. 潰す
計画などを潰す
希望などを打ち砕く

8. 演奏する
楽器を演奏する
歌を歌う

9. 俗語で、素晴らしいもの
すごい
最高

10. ジャズの曲名
Jelly Roll Morton作曲の "Black Bottom Stomp"
Fats Waller作曲の "Ain't Misbehavin'"

従って43小節目からは特に、力強く足踏みをするように演奏したいものです。

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  2024/06/26   animato

サックス四重奏 トッカータとフーガ第5番

サックス四重奏 トッカータとフーガ第5番
ヨゼフ・セーガー
Toccata & Fugue No.5
from 8 Taccatas and Fugues
Seger, Josef Ferdinand Norbert

編成はソプラノ、アルト、テナー、バリトンです。
木管四重奏、クラリネット四重奏、金管四重奏版は発売中です。
ボヘミアの格式と感性を味わえる音楽を、ぜひお楽しみください。

サックス四重奏 トッカータとフーガ第5番
ヨゼフ・セーガー
Toccata & Fugue No.5
from 8 Taccatas and Fugues
Seger, Josef Ferdinand Norbert

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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

Josef Ferdinand Norbert Seger(1716-1782)による「8 Toccatas and Fugues」は、バロック音楽の中でも
特にオルガン音楽の優れた作品の一つとされています。
この作品は、その優れた対位法の技術、バロック様式の特徴、そしてオルガンの魅力的な音色によって、音楽史上重要な位置を占めています。

1. Josef Ferdinand Norbert Segerについて

Josef Ferdinand Norbert Segerは、18世紀のボヘミア(現在のチェコ共和国)出身の作曲家で、
バロック期のオルガン音楽の重要な代表者の一人です。彼はプラハで生まれ、音楽と宗教の教育を受けました。
オルガン奏者、作曲家、そして音楽教育者としての経歴を持ち、彼の作品はバロック音楽の特徴を充分に表現しています。

ヨゼフ・セーガー(Josef Seger、本名Josef Ferdinand Norbert Segert、姓はSeegerまたはSeegrとも)
(1716年3月21日 - 1782年4月22日)は、チェコのオルガニスト、作曲家、教育者です。
プラハのカレル大学で哲学を専攻し、ボフスラフ・マチェイ・チェルノホルスキー、ヤン・ザックらに師事して音楽を学んだ後、
プラハの2つの教会のオルガニストとなり、亡くなるまでそこに留まりました。


非常に多作な作曲家であったセーガーは、18世紀のチェコ・オルガン楽派の最も重要な代表者の一人となりました。
彼の弟子には、ヤン・アントニン・コジェリューやヨゼフ・マイスリヴェチェクがおり、彼のフィギュアド・バスの練習曲は、
何世代にもわたって教師たちの役に立ちました。


生涯〕

セーガーはボヘミアのミェルニーク近郊のŘepínで生まれました。プラハのイエズス会ギムナジウムで学び、後にカレル大学で哲学を専攻しました。
また、オルガン演奏をボフスラフ・マチェイ・チェルノホルスキーに、対位法をヤン・ザッハとフランティシェク・トゥーマに、
そしてドラバシュによれば、フィギュアド・バスをフェリックス・ベンダに師事しました。
1741年頃、セーガーはティーン正面の聖母教会のオルガニストになり、1745年にはプラハの十字軍教会でも同様のポストを得ました。
1781年、皇帝ヨーゼフ2世はセーガーの演奏に感銘を受け、作曲家に宮廷の任命を申し出たましが、
セーガーは確認書が届く前の1782年にプラハで亡くなりました。

セーガーが生前に作曲した曲は出版されませんでしたが、
彼は重要な教師であり教育者でした。
彼の弟子には、カレル・ブラジェイ・コプジーヴァ、ヤン・アントニン・コジェリュ、ヤン・クシュティテル・クチャジュ、
ヨゼフ・マイスリヴェチェク、その他多くの著名なボヘミアの作曲家や音楽家がいました。
1790年代には、セーガーの作品のいくつかは印刷物に掲載されました。
8曲のオルガン・フーガのセレクションは、1793年にD. G. テュルクによって出版されました。
特に重要なのは、彼のフィギュアド・バスの練習曲の一部が出版されたことで、これは彼の死後数十年にわたって教師たちに使用されました。


作品
セーガーは、18世紀チェコで最も多作なオルガン作曲家であった。何百もの前奏曲、フーガ、トッカータ、
その他のオルガン曲が写本として残されています。
一般的に言って、彼の前奏曲とフーガは短い作品ですが(その長さはカトリックの典礼によって課された制限によって決定された)、
豊饒な和声的想像力と後期バロックの対位法の実践を完璧に把握していることを示しています。
彼はまた、ミサ曲、モテット、詩編も作曲しましたが、これらもまた古風な対位法に支配されていました。

2. 8 Toccatas and Fuguesについて

「8 Toccatas and Fugues」は、Segerによるオルガンのための8つのトッカータとフーガから成る作品です。
この作品は、バロック期のオルガン音楽の伝統的な形式であるトッカータとフーガを収録しています。

トッカータ(Toccata):トッカータは、速いテクニカルなパッセージや即興演奏の要素を持つ作品です。
Segerのトッカータは、オルガン奏者に高度な技巧を要求します。その中でも「トッカータ」は、自由なリズムとテンポが特徴で、
オルガニストが即興的な演奏を含めることができる場面があります。

フーガ(Fugue):フーガは対位法の要素を含む楽曲で、主題(主題と呼ばれる)が導入され、その後で変化したり組み合わせたりします。
フーガは対位法の技法を巧みに用いた作品で、複数の声部が交錯し、合奏が行われるため、演奏の難易度が高いことがあります。

3. 技術的要素と音楽的特徴

Segerの「8 Toccatas and Fugues」は、オルガン音楽における技術的な要素を豊かに含んでいます。
オルガン奏者は、迅速な指の動き、フットペダルの巧妙な操作、そして対位法のテクニックを駆使して、これらの作品を演奏します。

バロック音楽の特徴的な要素も随所に見られます。これらの作品は、複雑なリズムと対位法の美しさに特徴があり、
バロック期の音楽の豊かな表現力を示しています。バロック音楽は、音楽のコントラストを強調し、
情感豊かな表現を持つことが一般的で、これらのトッカータとフーガもその伝統に則っています。

4. 宗教的なコンテクスト

バロック期の音楽は、宗教的な儀式や礼拝のために頻繁に作曲されました。オルガンは教会で重要な楽器であり、
教会音楽の一環として演奏されました。Segerのオルガン作品も、宗教的な文脈で演奏されることを念頭に置いて作曲されました。
それゆえ、これらの作品は宗教的な音楽表現に貢献し、教会音楽の一部として重要な役割を果たしました。

まとめ

Josef Ferdinand Norbert Segerの「8 Toccatas and Fugues」は、バロック期のオルガン音楽の中で輝く作品の一つです。
その対位法の技術、バロック様式の美しさ、そして宗教的なコンテクストによって、音楽史において重要な存在となっています。
これらの作品は、オルガニストや音楽愛好家にとって、バロック音楽の魅力と美しさを探求する貴重な資料であり、
バロック期の音楽が持つ複雑な対位法や情感豊かな表現を体験する機会を提供しています。

Segerの作品は、バロック音楽の優れた例として現代に伝えられており、オルガン奏者や音楽学研究者によって演奏と研究が続けられています。
彼の音楽は、バロック音楽の時代背景と、その時代の音楽が持つ豊かな表現力を探求するための貴重な遺産の一部として尊重されています。

総括すると、Josef Ferdinand Norbert Segerの「8 Toccatas and Fugues」は、バロック音楽のオルガン作品の中で優れたものであり、
その音楽的な特徴や宗教的なコンテクストによって、音楽史上で重要な位置を占めています。
この作品は、音楽の歴史と文化におけるバロック期の貴重な遺産の一部として賞賛されています。

●ボヘミアは、中央ヨーロッパに位置する歴史的な地域で、現在のチェコ共和国の主要な部分を形成しています。
ボヘミアの歴史と文化についての要点を解説します。

歴史:
中世: ボヘミアの歴史は、9世紀にチェコ人がこの地域に入植し始めたことにさかのぼります。
中世には、プレモィスル朝などの支配者により統治され、プラハが主要な都市として発展しました。

フス戦争: 15世紀初頭には、ボヘミアは宗教改革の舞台となりました。ヤン・フス(Jan Hus)の影響を受け、フス戦争が勃発しました。
この戦争は宗教的・社会的な問題が絡んでおり、後にはボヘミアがハプスブルク家によって支配されることになります。

ハプスブルク帝国: ボヘミアはハプスブルク帝国の一部となり、長い間その支配下にありました。
帝国内で異なる文化や言語が共存する中で、ボヘミアは独自の文化を維持しました。

近現代: 20世紀初頭、ボヘミアはオーストリア=ハンガリー帝国の一部でした。
第一次世界大戦後、チェコスロバキアが成立し、ボヘミアはその一部となりました。
第二次世界大戦後、チェコスロバキアは共産主義の影響を受け、1989年のビロード革命で共産主義から脱却しました。

分裂と独立: 1993年、チェコスロバキアは平和的に分裂し、チェコ共和国とスロバキア共和国が独立しました。
ボヘミアはこの新たな国の一部となり、プラハが首都として維持されました。

文化:
プラハ: プラハはボヘミアの歴史的な首都であり、美しい中世の建築物や橋、城がその風景を彩ります。
プラハ城はボヘミアの象徴的な建造物の一つであり、多くの歴史的な出来事の舞台となっています。

文学と芸術: ボヘミアは多くの文学的伝統を有しており、フランツ・カフカやヤロスラフ・ハシェクなど、世界的に有名な作家を輩出しています。
また、ボヘミアの芸術も豊かで、アール・ヌーヴォーやシュルレアリスムなどの芸術運動に影響を与えました。

音楽: ボヘミアは音楽の分野でも重要な役割を果たしています。有名な作曲家であるベドルジハ・スメタナやアントニン・ドヴォルザークは
ボヘミア出身であり、彼らの作品は世界中で愛されています。

料理: ボヘミアの料理は中欧の伝統と影響を受けています。
料理の中で有名なものには、トラディショナルなガウディ(鳩のロースト)やトリュディリ(豚のロースト)があります。

ボヘミアはその豊かな歴史と独自の文化により、ヨーロッパの中でも特に興味深い地域の一つとされています。

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  2024/06/25   animato

木管五重奏 7つの小品から 2.宗教的カンティレーヌ

木管五重奏 7つの小品から 2.宗教的カンティレーヌ
テオドール・デュボア
2.Cantilene religieuse from 7 Pieces for Organ
Theodore Dubois

編成はFl.、Ob.、Cl.2本、Bsn.です。
クラリネット五重奏、サックス五重奏、金管五重奏版は発売中です。

たおやかなフランス・ロマン派の和声が溢れる作品をぜひ味わってください。

木管五重奏 7つの小品から 2.宗教的カンティレーヌ
テオドール・デュボア
2.Cantilene religieuse from 7 Pieces for Organ
Theodore Dubois

編成はFl.、Ob.、Cl.2本、Bsn.です。
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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

クレマン・フランソワ・テオドール・デュボワ(Clement Francois Theodore Dubois)による
「7 Pieces for Organ」(オルガンのための7つの小品)は、オルガンの演奏用に作曲された作品集です。
デュボワはフランスの作曲家で、19世紀末から20世紀初頭にかけて活動し、オルガン音楽においても
重要な作曲家の一人とされています。

特徴:
ジャンルと用途: 「7 Pieces for Organ」は、オルガン奏者やオルガニスト向けに書かれた作品集で、
宗教的な儀式や礼拝での演奏に適しています。オルガンは教会の礼拝で頻繁に使用され、
オルガン音楽は宗教音楽の一部として発展しました。

小品の形式: この作品集には合計で7つの小品が含まれており、各小品は異なるタイトルとキャラクターを持っています。
例えば、小品の中には「Prelude」(前奏曲)、「Offertoire」(奉納曲)、「Sortie」(退場曲)などが含まれていることが一般的です。
各小品は独立した楽曲として演奏されることがあります。
1.前奏曲(ハ短調) - Prelude (C minor):
前奏曲は、情熱的で荘厳な雰囲気を持つ曲です。ハ短調はしばしば力強く、感情的な音楽のキーとして知られており、
この前奏曲はその特性を生かしたものと言えます。オルガンの響きが堂々と響き、聴衆に印象的な音楽体験を提供します。

2.宗教的カンティレーヌ(ハ長調) - Cantilene religieuse (C major):
このカンティレーヌは、ハ長調の明るく美しい旋律が特徴です。宗教的な性格を持ち、聴衆に平和と神聖な感覚をもたらします。
ハ長調は希望や喜びのキーとして知られており、この曲はその感情を表現しています。

3.マルシエッタ(ヘ長調) - Marcietta (F major):
「マルシエッタ」は、ヘ長調の軽やかで舞曲風の小品です。明るく陽気な雰囲気があり、オルガンの音色が軽快に響きます。
これは聴衆を楽しませる素敵な音楽です。

4.間奏曲(変ホ長調) - Interlude (E♭ major):
「間奏曲」は、変ホ長調で書かれた穏やかな小品です。感傷的で美しい旋律が中心にあり、静謐な雰囲気を醸し出します。
オルガンの音色が宇宙的な響きを持っています。

5.祈り(ニ長調) - Priere (D major):
「祈り」は、ニ長調の優美な旋律が特徴で、熱心な祈りや精神的な静けさを表現しています。
オルガンの音色が感動的で、聴衆に神聖な瞬間を提供します。

6.後奏曲-歌(変ホ長調) - Postlude-Cantique (E♭ major):
「後奏曲-歌」は、変ホ長調の明るく華麗な音楽で、終わりの華やかな演奏を提供します。
この小品は美しい旋律と技巧的な演奏を組み合わせ、聴衆を感動させます。

7.行進曲・終曲(ト長調) - Marche-Sortie (G major):
最後の小品である「行進曲・終曲」は、ト長調の明るく華やかな行進曲です。
力強く演奏され、オルガンの響きが建物全体に広がります。終演にふさわしい華やかな曲で、聴衆に感謝と歓喜をもたらします。

これらの「7 Pieces for Organ」は、デュボワのオルガン作品の中でも特に人気があり、
オルガン奏者やクラシック音楽愛好家によって広く演奏されています。
各小品は異なるキーと感情を持ち、多彩な音楽的体験を提供します。

難易度: デュボワのオルガン作品は一般的に技巧的であり、オルガン奏者に高度な技術を要求します。
彼の作品はオルガニストの演奏技巧を披露する機会としても知られています。

宗教的な性格: デュボワの作品は宗教的な性格を持っており、キリスト教の礼拝や宗教的な儀式で演奏されることが多いです。
オルガンの豊かな音色と力強い響きは、宗教的な雰囲気を醸し出すのに適しています。

クレマン・デュボワの「7 Pieces for Organ」は、彼のオルガン音楽の中でも重要な作品の一つであり、オルガニストやオルガン愛好家にとっては魅力的なレパートリーとされています。これらの小品は宗教的な儀式やオルガンのコンサートで演奏され、オルガン音楽の豊かな伝統を示すものとなっています。
Clement Francois Theodore Dubois(1837年8月24日-1924年6月11日)は、フランスのロマンチックな作曲家、オルガニスト、音楽教師でした。
パリ音楽院で学んだ後、デュボアは1861年にフランスの最高の音楽賞であるローマ賞を受賞しました。彼はパリのいくつかの有名な教会で
オルガニスト兼合唱団長になり、同時に音楽院の教授として調和を教えました。 1871年から1891年まで、そして1891年から1896年まで作曲し、
アンブロワーズ・トーマスをコンセルヴァトワールの監督として引き継ぎました。
彼は前任者の厳密に保守的なカリキュラムを継続し、モダニストのモーリス・ラヴェルが勝つことを防ぐためにローマ賞の競争を
仕掛けようとした教員の試みをめぐってスキャンダルが勃発した後、早期に引退を余儀なくされました。
作曲家として、デュボアは有能で上品であると見なされていましたが、驚くほど独創的でも刺激を受けたものでもありませんでした。
彼はオペラ作曲家としてのキャリアを望んでいましたが、彼の教会の作曲でよりよく知られるようになりました。
彼の音楽理論に関する本は影響力があり、長年使用され続けました。

デュボアは、ランス近郊の村、マルヌのロスナイで生まれました。家族は音楽の職業とは関係がありませんでした。
彼の父ニコラスはバスケットメーカーであり、彼の祖父ジャンは学校の先生でした。彼の母親のセリニー・デュボア(旧姓シャルボニエ)は職業がなく、
主に若いテオドールを育てるために時間を費やしました。デュボアはランス大聖堂の聖歌隊指揮者であるルイ・ファナートにピアノを学び、
ロスナイ市長のヴィコント・ユージーン・ド・ブレイユの弟子であり、ピアニストのジャン・アンリ・ラヴィーナを紹介しました。
ラヴィナの連絡先を通じて、デュボアは1854年にダニエルオーベールが率いるパリ音楽院に入学しました。
彼はアントワーヌ・フランソワ・マルモンテルでピアノを、フランソワ・ブノワでオルガンを、フランソワ・バジンでハーモニーと 、
アンブロワーズ・トーマスで対位法と作曲を学びました。学生時代、彼は1855年からセントルイスデインヴァリデスで、
1858年からサントクロティルデ(セザールフランクの下)でオルガンを演奏することに従事していました。
そしてオルガン、そして最後に、1861年にフランスの最高の音楽賞であるローマ賞を受賞しました。

1861年12月から、デュボアはジュール・マスネを含む仲間の学生の友人になりました。
彼の研究の合間に、彼はローマとその周辺の田園地帯のモニュメントを訪れ、システィーナ礼拝堂の音楽演奏に出席し、ナポリ、ポンペイ、ヴェネツィア、
ヴェローナ、マントヴァ、ミラノ、フィレンツェを訪れました。彼はイタリアのクラシックスタイルの序曲で彼の印象を音楽的な形で与えました
buffo opera(La prova di opera seria オペラセリアのリハーサル)そして最後に荘厳ミサを作曲しました。
ローマ滞在中に出会った著名な音楽家の中には、ミサを聞いて若いデュボアを励ましたフランツリストがいました。

1866年にパリに戻ったデュボアは、サントクロティルデの聖歌隊指揮者に任命されました。1867年の聖金曜日に、彼の軍隊は彼の
レセプトパロールデュキリスト(キリストの最後の7つの言葉)を演奏しました。
カミーユサンサーンスとロマンビュシーヌが1871年に国民音楽協会を設立したとき、デュボアは、とりわけアンリデュパルク、 ガブリエルフォーレ、
セザールフランク、エルネストギロー、マスネとともに創設メンバーでした。同じ年に、彼はマドレーヌ教会の聖歌隊指揮者に任命されました。
普仏戦争中1870年から71年にかけて、彼は国家警備隊に加わりました。彼の伝記作家であるヒューズ・インベルトは、
「彼とサン=サーンスがマドレーヌ寺院で頻繁に会ったのは軍服で、一方は礼拝堂の聖歌隊を率い、もう一方は偉大なオルガンに登った」と記録しています。
両方の男性は、パリコミューンの血なまぐさい最後の日を逃れ、サンサーンスはイギリスに、デュボアはロスナイの彼の実家に逃れました。

デュボアは1871年に音楽院の学部に加わり、アントワーヌ・エルワートを調和の教授として引き継ぎました。彼は次の20年間そのポストを保持しました。
そして後に彼の作曲のクラスの生徒たちには、ポール・デュカス、ジョージ・エネスク、アルベリク・マニャール、フローラン・シュミットが
含まれていました。1872年8月、デュボアはピアニストのジャンヌデュビナージュ(1843-1922年)と結婚しました。
その父親はオペラコミックの指揮者でした。それは生涯にわたる幸せな結婚でした。彼らには2人の子供がいました。

デュボアはオペラ作曲家になるという野心を持っていましたが、パリの主要なオペラ会社に足場を築くことができませんでした。
古い劇場アテネでは、ジュール・バルビエとミシェル・カレによる台本付きの彼のワンアクト・ラグズラ・デ・レミール(エミールのリュート)が、
1873年にジャン・グレゴワール・ペナヴェールとポール・ラコームによる短いオペラの三重法案で首尾よく与えられました。 
1878年に彼はパリ市によって設立されたコンクールミュージカルで賞を受賞したベンジャミンゴダールと共有し、彼のパラディスペルドゥ(パラダイスロスト)は
最初に公費で1878年11月に行われました。

1877年にサンサーンスはマドレーヌのオルガニストとして引退しました。デュボアは彼に取って代わり、フォーレによって合唱指揮者として引き継がれました。
 1879年、デュボアはパリの主要な家の1つでオペラを上演しました。オペラ・コミック座は2月に一幕物のコメディー「ル・パン・ビス」を上演しました。
特に独創的ではありませんが、非常にエレガントで、優れたメロディーがいくつかあります。
フォーレと一緒に、デュボアは1880年7月にミュンヘンを訪れ、ワーグナーの タンホイザーとダイマイスターシンガーの公演に出席しました。
フォーレのように、デュボアはワーグナーの音楽に感銘を受けましたが、他のフランスの作曲家の多くがそうであったように、
それが彼自身の作曲に影響を与えることを許さなかったようです。

デュボアは、フランスの最高の家であるパリオペラ座でオペラを上演することに成功したことはありませんでしたが、1883年にロシタマウリを中心に、
デュボアの音楽に合わせた3幕のバレエ「ラファランドール」が上演されました。
音楽は目立ったインスピレーションや独創性はないものの、十分に書かれていて、全体の行動によく適していました。
この作品は人気があり、今後数年間にわたってオペラで頻繁に復活しました。同じ年にデュボアはのシュヴァリエに任命されたレジオンドヌール勲章を授与されました。

1884年、デュボアは4幕のオペラ「アベンハメット」で大成功を収めました。シャトレ広場のイタリア座劇場で開幕し、熱狂的に受け入れられましたが、
金融危機により劇場が廃業し、デュボアは歌手の未払い賃金を支払う個人的責任を負ったため、4回の公演後に閉館しました。

レオ・ドリーブが1891年1月に亡くなったとき、デュボアはコンセルヴァトワールの作曲教授として彼の後任に任命されました。
1894年にシャルル・グノーが亡くなった後、デュボアは芸術アカデミーのメンバーとして彼の後任に選出され、彼の伝記作家ジャン・パスラーによれば、
「彼の音楽の明晰さと理想主義」が認められた、と述べています。

1896年、1871年以来コンセルヴァトワールのディレクターであるトーマスが亡くなりました。対位法、フーガ、作曲の教授であるマスネは、
彼の後を継ぐことが広く期待されていましたが、フランス政府が拒否したとき、彼は学部を辞任しました。
デュボアは監督に任命され、トーマスの非妥協的な保守体制を継続した。オーバー、ハレヴィ、特にマイアベーアの音楽は学生にとって正しいモデルと見なされ、
ラモーのような古いフランス音楽やワーグナーの音楽を含む現代音楽はカリキュラムから厳しく排除されました。
デュボアは絶え間なく敵対的だったモーリス・ラヴェルは、コンセルヴァトワールの学生が学部の反モダニズムに従わなかったとき、
1902年にデュボアはドビュッシーの画期的な新しいオペラ、ペレアスとメリザンドの公演に出席することをコンセルヴァトワールの学生に禁じました。

1905年6月、デュボアは、ラヴェルがローマ賞を受賞するのを阻止しようとした教員の露骨な試みによって引き起こされた公のスキャンダルの後、
計画された引退を前倒しすることを余儀なくされました。フォーレは、デュボアの後任として任命され、フランス政府から機関を近代化するための簡単な
説明を受けました。

彼の私的な立場では、デュボアは彼が主宰した学問的レジームよりも反動的ではありませんでした。
ワーグナーのパルジファルが1914年に遅れてパリで初演されたとき、デュボアは同僚のジョルジュユエに、
これほど美しい音楽はこれまでに書かれたことがないと語りました。
個人的に彼はドビュッシーの音楽に魅了され、その「微妙なハーモニーとレ・プレシュー・ラフィネス」、つまり微妙なハーモニーと貴重な洗練を見出していました。

コンセルヴァトワールから引退した後も、デュボアはパリの音楽界でおなじみの人物であり続けました。彼はコンセルヴァトワール同窓会の会長であり、
毎年恒例の授賞式を主宰しました。彼の最後の年まで、彼は健康でした。1923年の彼の妻の死は彼が回復しなかった打撃であり、彼は短い病気の後、
1924年6月11日に86歳で彼のパリの家で亡くなりました。

1905年のデュボア
彼は多くの宗教的な作品を書きましたが、デュボアはオペラでの成功したキャリアに期待を持っていました。彼の中近東の主題への興味は、
彼の最初の舞台作品であるラグスレ・デ・レミールと彼の最初の4幕のオペラであるアベン・ハメットの作曲につながりました。
後者は、キャスト(エマ・カルヴェとジャン・ド・レシュケが率いる)と作品について素晴らしい注目を集めましたが、
通常のレパートリーでは場所を獲得しませんでした。
彼の他の大規模なオペラ、ザビエールは、「劇的な牧歌」と呼ばれ、オーヴェルニュの田舎を舞台にしています。
物語は、娘の相続を獲得するために彼女のフィアンセの父親の助けを借りて、娘のザビエールを殺そうと企んでいる未亡人の母親を中心に展開しています。
ザビエールは司祭の助けを借りて攻撃を生き延び、オペラは通常のハッピーエンドで終わります。

デュボアの音楽には、バレエ、オラトリオ、3つの交響曲も含まれています。彼の最も有名な作品は、
オラトリオ・レ・セプト・パロール・デュ・キリスト(「キリストの最後の七つの言葉」[1867])であり、これは時々演奏され続けています。
彼のトッカータは、通常のオルガンレパートリーに残っています。彼の残りの大きな作品群は、ほとんど完全に忘れられてしまいました。
彼の理論的作品であるTraitedecontrepointetde fugue(対位法とフーガ)とTraited'harmonietheoriqueetpratique(調和)は今日でも時々使用されていて、
彼は教育においてより永続的な影響力を持っています。

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  2024/06/24   animato

クラリネット六重奏 ペダルフルーゲルのための4つのスケッチ第3曲

クラリネット六重奏 ペダルフルーゲルのための4つのスケッチ第3曲
ロベルト・シューマン
4 Skizzen fur den Pedalflugel, Op.58-3
Schumann, Robert

編成はCl.5本、Bs.Cl.です。
サックス六重奏、木管六重奏、金管六重奏版は発売中です。
ドイツ・ロマン派の名曲をコンサート・ピースに、ぜひどうぞ。

クラリネット六重奏 ペダルフルーゲルのための4つのスケッチ第3曲
ロベルト・シューマン
4 Skizzen fur den Pedalflugel, Op.58-3
Schumann, Robert

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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

ロベルト・シューマン(Robert Schumann)の「4 Skizzen fur den Pedalflugel, Op. 58」は、シューマンによって作曲されたピアノ曲集で、
その名前からも分かるように、ペダルフルーゲル(Pedal Piano)と呼ばれる楽器のために書かれました。
これは通常のピアノとは異なり、低音のペダルを使って楽器の音を調整できる特殊なピアノです。

この曲集には4つの楽曲が含まれており、各楽章が異なるテーマと音楽的な特徴を持っています。

1.Nicht schnell und sehr markiert (C minor):
この楽章は「Nicht schnell und sehr markiert」と指示されており、C短調で書かれています。
指示通り、速くはなく、非常にマークされた表現が求められます。C短調の深い感情と重厚な和声が音楽に特徴を与えています。
この楽章は重要な主題を導入し、聴衆にシューマンの音楽の真髄を味わわせます。

2.Nicht schnell und sehr markiert (C major):
次の楽章も「Nicht schnell und sehr markiert」で、ただしC長調で書かれています。
この楽章は、前の楽章とは異なるキーで同様の指示を持つことで、聴衆に音楽的な変化をもたらします。
C長調の楽章はより明るく、陽気であり、シューマンの音楽の多様性を示しています。

3.Lebhaft (F minor):
この楽章は「Lebhaft」(活発)と指示され、F短調で書かれています。
シューマンはここで活気にあふれた性格を表現し、リズムとメロディが明るく、躍動的です。
F短調の音楽は感情的で情熱的であり、聴衆に感動をもたらします。

4.Allegretto (D♭ major):
最後の楽章は「Allegretto」と指示され、D♭長調で書かれています。
この楽章は明るく、軽快で、アレグレットの指示に従い、快活な音楽を提供します。
D♭長調の和声は美しく、聴衆に喜びをもたらします。

「4 Skizzen fur den Pedalflugel, Op. 58」は、異なるキーと表現を持つ各楽章によって、シューマンの音楽の幅広さと深さを示しています。
これらの楽章は、ペダルフルーゲルの特別な音響効果を活用しながら、聴衆に多彩な音楽体験を提供します。
シューマンの独自の音楽的アイデンティティがこれらの楽曲で際立っています。

「4 Skizzen fur den Pedalflugel, Op. 58」は、シューマンが新しい楽器であるペダルフルーゲルのために作曲した特別な曲集です。
各楽章が異なる性格と技術的要素を提供し、演奏家に音楽的な探求と表現力を求めます。
これらの楽曲は、シューマンの音楽的な実験と創造力の証であり、独特な音響を楽しむことができる魅力的な作品となっています。

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  2024/06/23   animato

金管四重奏「牧歌」

金管四重奏「牧歌」
オルガンのための12の作品から
9.Pastorale
from Douze pieces d'orgue (12 Pieces)
J-N.レメンス
Jacques-Nicolas LEMMENS

編成はTp.、Hn.、Tbn.またはEup.、Tubaです。
クラリネット四重奏、サックス四重奏、木管四重奏版は発売中です。

気品に満ちた荘厳なベルギーの作品をお楽しみください。

金管四重奏「牧歌」
オルガンのための12の作品から
9.Pastorale
from Douze pieces d'orgue (12 Pieces)
J-N.レメンス
Jacques-Nicolas LEMMENS

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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

Lemmensの『Douze pieces d'orgue』(ドゥーズ・ピエス・ドゥ・オルグ、12のオルガンの小品)は、ベルギーの作曲家・オルガニストである
ジャック=ニコラ・レメンスによって作曲されたオルガンのための12の作品であり、
オルガン音楽の中でも重要な作品の一つとして高く評価されています。
この作品は、19世紀後半のオルガン音楽の発展に大きな影響を与え、オルガニストやオルガン愛好家によって広く演奏されています。

『Douze pieces d'orgue』は、オルガン音楽の重要な作品の一つとして、現代のオルガニストやオルガン愛好家によって広く演奏されています。
レメンスのオルガン作品は、その優れた音楽性と技術的な高難度から、オルガン演奏の技術向上を目指すオルガニストたちにとっても
重要な学習教材としても知られています。この作品集は、オルガニストたちにとって、演奏技術の向上や音楽の表現力の探求を通じて、
オルガン演奏の新たな境地を切り拓く機会を提供しています。

また、『Douze pieces d'orgue』は、オルガニストたちにとって、オルガンの多彩な音響やレジスターの使用法を探求する機会を与えています。
各曲は異なる音響効果やレジスターの組み合わせを用いて、オルガニストに多様な音楽的表現を可能にします。
これにより、オルガニストは音響の使い方やレジスターの選択について深い洞察を得ることができます。

さらに、レメンスの『Douze pieces d'orgue』は、音楽の歴史的背景や文脈を考える上でも興味深い作品集と言えます。
レメンスは、自身の作品において、伝統的なオルガン音楽のルーツやバロック音楽のスタイルを踏襲しつつ、
現代的な音楽の要素を取り入れることで、当時の音楽の進化を示しています。
このように、レメンスの作品は、その時代の音楽の変遷や流行についての理解を深める上でも興味深い研究対象となっています。

9番目の小品である「Pastorale」は、牧歌的な性格を持った楽曲で、オルガンの美しい旋律と調和が特徴的です。
「Pastorale」は「田園風の」という意味の形容詞であり、「牧歌的な」という意味を持ちます。
また、「牧歌」や「田園」を表現する形容詞や名詞としても使用されます。
この作品は、レメンスのオルガン作品の中でも人気の高いものの一つであり、多くのオルガニストや聴衆に親しまれています。
「Pastorale」は、穏やかで明るい雰囲気を持ち、牧歌的なメロディがオルガンのパイプを駆使して表現されます。
この小品は、オルガニストの技巧を要求する箇所もあり、緻密なフィンガリングやフットワークが必要とされます。
また、レメンスの作品に典型的な、対位法的なテクニックや豪華な装飾も特徴的であり、独特な響きを持っています。
「Pastorale」は、オルガンの響きを最大限に生かしながら、穏やかな雰囲気を醸し出す優れた作品であり、
レメンスのオルガン音楽の中でも優れた作品の一つとして高く評価されています。

最後に、レメンスの『Douze pieces d'orgue』は、オルガニストの演奏技術や音楽性を高めるだけでなく、
オルガン音楽の魅力や可能性を再発見する機会をもたらしています。

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  2024/06/22   animato

サックス五重奏 エリート・シンコペーションズ

サックス五重奏 エリート・シンコペーションズ
スコット・ジョプリン作曲
Elite Syncopations
Scott Joplin

編成はソプラノ、アルト2本、テナー、バリトンです。
クラリネット五重奏、木管五重奏、金管五重奏、鍵盤打楽器とベース三重奏版は発売中です。

穏やかで楽しい雰囲気のラグタイムをコンサートピースの小品に、ぜひどうぞ。

サックス五重奏 エリート・シンコペーションズ
スコット・ジョプリン作曲
Elite Syncopations
Scott Joplin

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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

「Elite Syncopations」は、アメリカの作曲家でラグタイムの王様とも呼ばれるスコット・ジョプリン(Scott Joplin)によって
作曲された楽曲の一つです。作曲年は1902年です。 ジョプリンは、ラグタイムと呼ばれる音楽ジャンルの中で特に著名で、
その作品はピアノのためのものが多く、その中で「Elite Syncopations」も重要な位置を占めています。

「Elite Syncopations」は1902年に発表されました。この曲は、その当時非常に人気のあった社交ダンス音楽や
エンターテインメント音楽の要素を取り入れており、そのため聴衆にとっても演奏者にとっても楽しいものとなっています。
ラグタイムは、特にピアノの奏者たちによって広められ、演奏されることが多かった音楽であり、ジョプリンはその中でも最も優れた作曲家と見なされています。

「Elite Syncopations」の特徴的な要素には、複雑なリズムやシンコペーション(拍の強調を通常のリズムからずらすこと)が含まれています。
また、楽曲は軽快で陽気な雰囲気を持ち、ダンスホールや社交場での演奏に適しています。

この曲は、ジョプリンの代表作の一つと見なされ、彼の音楽が20世紀初頭のアメリカでどれほど重要だったかを示すものとなっています。
今日でも、「Elite Syncopations」はピアノの演奏者や音楽愛好者によって愛され、演奏され続けています。

スコット・ジョプリンはアメリカ黒人が作り上げた音楽スタイル「ラグタイム ragtime」の中で、
最も良く知られている作曲家/ピアニストです。
明治維新の年にテキサス州テキサカーナで生まれ、1917年、ニューヨークで亡くなりました。
1885年から1893年にかけてはセントルイスのナイト・クラブで演奏し、90年代にはミズーリ州のセダリアで
ザ・クイーン・シティ・ニグロ・バンドでコルネットを吹いていました。
93年には、シカゴ万博にも出演しています。

当時のアメリカでは、楽曲はシート・ミュージック(楽譜)の売り買いによって世間に広まりましたが、
ジョプリンも例外ではなく「Please Say You Will」「Picture of Your Face」など自作曲の権利を売っていました。
彼にとって初めてのラグタイム曲となる「Original Rags」(1899年)も同様でした。
しかし、彼の代表作「メイプル・リーフ・ラグ Maple Leaf Rag」は印税契約という、当時の黒人としては異例の方法が取られました。
そして、この契約を申し出たジョン・スターク(白人)と共同歩調を取ることによってスコット・ジョプリンは、
ラグタイムの象徴となりました。
ちなみに「メイプル・リーフ・ラグ」(1899年)のシート・ミュージックは、発売されたその年だけで7万5千部も売れました。
ジョプリンはその後、たくさんのラグタイム曲を出版しましたが、彼の望みはバレーやオペラなど「格の高いジャンル」で
認められることでした。このような彼の意識背景には、アメリカの黒人差別がありました。
ジョプリンはバレー曲「The Ragtime Dance」(1902年)、オペラ「The Guest of Honor」(03年)を作曲しましたが、
ことごとくが失敗に終わりました(「The Guest of Honor」は出版されなかった)。
そうこうしているうちに、ラグタイムに影響され、より黒人色の強いジャズが台頭しきました。
ラグタイムがアメリカ最初の「自国の音楽」として欧米で持て囃されたのは19世紀末から1920年あたりだと言われていますが、
ジョプリンはまさにその短い時代に世に出て、そして亡くなったミュージシャンでした。
1910年頃には彼は梅毒におかされ、17年に亡くなりました。

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  2024/06/21   animato

木管五重奏 6つの空想から「陽だまりの小川のほとりで」Op.87a No.4

木管五重奏 6つの空想から「陽だまりの小川のほとりで」Op.87a No.4
トマス・ダンヒル
4. By the Sunlit Stream
Thomas Dunhill

編成はFl.、Ob.、Cl.2本、Bsn.です。
クラリネット五重奏、サックス五重奏、金管五重奏は発売中です。

穏やかな小川のほとりで陽光を楽しむような作品をぜひ味わってください。

木管五重奏 6つの空想から「陽だまりの小川のほとりで」Op.87a No.4
トマス・ダンヒル
4. By the Sunlit Stream
Thomas Dunhill

編成はFl.、Ob.、Cl.2本、Bsn.です。
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穏やかな小川のほとりで陽光を楽しむような作品をぜひ味わってください。

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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

「By the Sunlit Stream」は、トマス・ダンヒル(Thomas Dunhill)によって作曲されたピアノ4手連弾のための楽曲で、
作品集「Four Hand Fancies」Op.87aの中の第4番に位置しています。
トマス・ダンヒルは、イギリスの作曲家であり、19世紀末から20世紀初頭にかけて活動しました。
彼は室内楽、歌曲、ピアノ曲などを作曲し、その作品は繊細なメロディと豊かな音楽性で知られています。

6つの空想と題された組曲は次のように構成されています。
1. An April Pastoral「四月の牧歌」
2. Phyllis and Corydon「フィリスとコリドン」
3. A Gypsy Lullaby「ジプシーの子守唄」
4. By the Sunlit Stream「陽だまりの小川のほとりで」
5. Cowslip Meadow「ヤマブキソウの草原」
6. Sligo Fair (A Reel)「スライゴの祭」

「Four Hand Fancies」は、ピアノ4手のための一連の作品集であり、その中で「By the Sunlit Stream」は第4曲として存在します。
この楽曲は、その名前からも分かるように、日光の差し込む小川や川岸の風景を表現しています。
ピアノ4手の連弾によって、二つのピアノが協力して演奏することで、より豊かな音響やテクスチャが実現されます。

「By the Sunlit Stream」は、自然の美しい光景を音楽で描写することを通じて、聴衆に感動や想像を駆り立てることを意図しているでしょう。
ダンヒルの作品はしばしば情緒的で、風景や情景描写が特徴とされています。
トマス・ダンヒルの作品はその独自の音楽的なアプローチによって、聴衆に感動や響きをもたらすことが多いです。

楽譜を入手して自分で演奏してみることをおすすめします。また、録音された演奏や音楽解説を通じても、この美しい楽曲の魅力を楽しむことができます。

作曲家トマス・ダンヒル:
トマス・ダンヒル(1877年-1946年)は、イギリスの作曲家で、主に歌曲や室内楽を手がけました。
彼はイギリスの音楽教育者としても知られ、ロンドン王立音楽院で教鞭をとりました。
ダンヒルは、古典的なスタイルとロマンティックな要素を取り入れた作品を数多く作曲しました。

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  2024/06/20   animato

クラリネット四重奏「歌劇ベレニーチェへの序曲」から 4.ジーグ

クラリネット四重奏「歌劇ベレニーチェへの序曲」から 4.ジーグ
ヘンデル作曲
Overture to Berenice
4.Gigue (hwv 38-4)
G.F.Handel

編成はクラリネット3本、バスクラリネットです。
木管四重奏、サックス四重奏、金管四重奏版は発売中です。

ヘンデルの隠れた名曲をコンサート・ピースに、ぜひどうぞ。

クラリネット四重奏「歌劇ベレニーチェへの序曲」から 4.ジーグ
ヘンデル作曲
Overture to Berenice
4.Gigue (hwv 38-4)
G.F.Handel

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ヘンデルの隠れた名曲をコンサート・ピースに、ぜひどうぞ。

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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

「ベレニーチェへの序曲」(Overture to Berenice)は、ドイツの作曲家
ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル(George Frideric Handel)によって作曲された作品の一つです。
この作品はオペラ「ベレニーチェ」(Berenice)の序曲として書かれました。

この序曲は4つの曲から構成されています。
1.ラルゴ Largo
2.アレグロ Allegro
3.アンダンテ ラルゲット Andante largetto
4.ジーグ Gigue

1.ラルゴ (Largo):
ラルゴは通常、ゆっくりとしたテンポの楽章を指します。ヘンデルのラルゴはしばしば豊かな旋律と重厚な和声で知られています。
この部分では、静かで感情豊かな音楽が奏でられるでしょう。ラルゴはしばしば物語性や感情の表現に力を入れた楽章となります。

2.アレグロ (Allegro):
アレグロは速いテンポの楽章を指します。ヘンデルのアレグロは、軽快でリズミカルな要素が含まれ、
明るく活気に満ちた音楽になることが一般的です。この部分では、速いテンポによる興奮やエネルギーが感じられるでしょう。

3.アンダンテ ラルゲット (Andante larghetto):
アンダンテは中庸なテンポを指し、ラルゲットは少し広めのテンポで、どちらも比較的ゆったりとした速さを示します。
この部分では、メロディが流れるように進み、静かで穏やかな雰囲気が広がるでしょう。

4.ジーグ (Gigue):
ジーグは通常、軽快な舞曲の形式で、特にバロック期の音楽でよく見られます。
この部分では、軽快で踊りやすいリズムが特徴で、ヘンデルの場合はしばしば器楽曲や舞踏音楽に取り入れられます。
ジーグは活気に満ち、楽しさや軽快さが感じられるでしょう。

ヘンデルはバロック期の作曲家で、彼の作品は力強い旋律、豊かな和声、そして様々な楽器の魅力的な組み合わせによって
特徴付けられています。「ベレニーチェへの序曲」もその典型的な特徴を持っており、それぞれの楽章で異なる雰囲気や
表現が聴取者に提供されています。

ベレニーチェ(Berenice)HWV 38は、ドイツ出身の作曲家ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル(George Frideric Handel)によって
作曲されたオペラ・セリアです。
このオペラは1737年に初演され、ヘンデルの後期のイタリア・オペラの一部として広く知られています。

作曲の背景: ヘンデルはイタリア・オペラの作曲家として成功を収めていましたが、その中でもロンドンにおける成功が最も著しかったです。
Bereniceはロンドンでの一連のオペラ作品の中の一つで、その中でも1737年に作曲され、初演されました。

台本: ベレニーチェのリブレット(台本)はジャコモ・ロッシーニ(Giacomo Rossi)によって書かれました。
ベレニーチェは歴史的な出来事に基づいており、エジプト女王バレニケ2世(Berenice II)の物語を扱っています。

物語の要素: オペラはエジプト女王バレニケ2世とその政治的な状況を中心に据えています。
ベレニーチェはローマ帝国との政治的な同盟や愛の葛藤といった要素が物語の中で重要な位置を占めています。

音楽的特徴: ヘンデルのオペラはその深い音楽的な洞察力と劇的な表現力で知られています。
Bereniceも例外ではなく、美しいアリアや合唱、力強いレチタティーヴォが特徴です。
ヘンデルは歌手の個々の才能を引き立てることに巧みであり、そのための個別のアリアが多数含まれています。

成功と後世への影響: Bereniceは初演当初は成功を収めましたが、その後はあまり上演されず、一時期忘れ去られていました。
しかし、近年ではヘンデルの作品全体に再評価の機運が高まり、ベレニーチェも新たな興味を引き起こしています。
Bereniceはヘンデルのオペラの中で相対的に知名度が低い作品の一つかもしれませんが、その深い音楽と舞台芸術の要素により、
近年では再び注目を浴びています。

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  2024/06/19   animato

金管五重奏 セレスティーヌ・ワルツ

金管五重奏 セレスティーヌ・ワルツ
ジョセフ・ラム作曲
Celestine Waltzes
Joseph Lamb


編成はTp.2本、Hn.、Tbn.またはEup.、Tubaです。
木管五重奏、サックス五重奏、クラリネット五重版は発売中です。
20世紀初頭のアメリカン・ワルツ作品を、ぜひお楽しみください。

金管五重奏 セレスティーヌ・ワルツ
ジョセフ・ラム作曲
Celestine Waltzes
Joseph Lamb


編成はTp.2本、Hn.、Tbn.またはEup.、Tubaです。
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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

作曲者

ジョセフ・フランシス・ラム (Joseph Francis Lamb, 1864-1933) は、アメリカ合衆国の作曲家、ピアニスト、音楽教師です。
シカゴに生まれ、シカゴ音楽大学で作曲とピアノを学びました。
その後、ヨーロッパへ渡り、ベルリン音楽院で作曲を学びました。帰国後はシカゴ音楽大学で教鞭を執る傍ら、作曲活動を続けました。

「セレスティーヌワルツ」は、ラムの最も有名な作品の一つです。
1905年に作曲され、出版されました。3つのワルツで構成されており、優雅で美しい旋律が特徴です。

Miss A. C. Lamb.に献呈されています。
「セレスティーヌワルツ」は、多くのピアニストによって演奏されています。
有名な演奏家には、アルトゥール・ルービンシュタイン、ヴラディミール・ホロヴィッツ、ヴァディム・チェルノモレッツなどがあります。


「セレスティーヌワルツ」は、アメリカ音楽の代表的な作品の一つとして評価されています。
優雅で美しい旋律は、世界中の聴衆を魅了し続けています。

「セレスティーヌワルツ」は、日本でも多くのピアニストによって
演奏されています。有名な演奏家には、中村紘子、内田光子、小山実稚子などがあります。


「セレスティーヌワルツ」は、映画やテレビドラマにも使用されています。

●ジョセフ・フランシス・ラム Joseph Francis Lamb (1887年12月6日 ~ 1960年9月3日)

クラシック・ラグタイムの ビッグ3 と呼ばれるアメリカ人のラグタイム作曲家の一人。
(他のビッグ3、すなわち スコット・ジョプリン Scott Joplin と ジェームス・スコット James Scott が共に黒人だったのに対し)
アイリッシュ系アメリカ人のラムは、東部(ニューヨーク近郊 ニュージャージー)で一般人として生活しながらも
生涯に渡って優れたラグタイム作品を数多く作曲しました。
その作品群は、20世紀初頭のラグタイム時代から第二次大戦後のラグタイムリバイバルに至るまで、彼の終生に渡って発表・出版されました。
また近年においても未発表曲を集めた楽譜集や初の伝記が出版されるなど、
ラグタイム分野を中心にアメリカ音楽界の注目を当世でも集め続けています。
これらの事実を考慮するならば、アメリカ音楽史に名を残すべき偉大な作曲家として評価され、知られるべき音楽家です。

ラムは、1887年の年の瀬 12月に、ニューヨークの南西隣に位置するニュージャージー州モントクレア Montclair で、
大工を営む家庭の4人兄弟の末っ子として生まれました。当時のアメリカは華々しい成長期 - いわゆる「金ぴか時代」を迎えており、
娯楽文化の発達とピアノ製造拡大・様々な印刷楽譜(シート・ミュージック)の大量流通が大きな市場を生み出していた時代で、
裕福な家庭だったラム家の二人の姉もご他聞にもれずピアノを習っていましたので、ラム自身も音楽が身近にある環境で育ったと思われます。
彼自身は正規の音楽教育を受けることなく独学で(また、姉達に教わりながら)ピアノ演奏をマスターしていったようですが、
その一方で早い時期から作曲も始めていたと推測されています。(五線譜の使い方を覚える以前から「黒玉の羅列で曲を書いていた」という逸話があります)

12歳の時(1900年)に父が亡くなると、彼はカナダのオンタリオ州バーリン Berlin (※1916年に Kitchener と改名)の
学校に寄宿生として入学することになり、1904年に(恐らく中退で)学業から離れるまで彼の地で過ごしました。
この頃から本格的に作曲を始めており、未出版の曲が1900年付で作曲されている記録があるほか、
1903年には初めて「ラグ」と銘打たれた作品が作られています。(「Walper House Rag」、タイトルは学校があったバーリンの著名なホテルに因んでいます)

学校を辞めたラムは、故郷のモントクレアに戻って働き始めます。一時期、兄を訪ねてサンフランシスコへ足を運んだものの、
1906年には(歴史的なカリフォルニア大地震の発生前に)故郷へ戻り、新たにニューヨークで音楽出版者に雇われることになりました。
当時のニューヨークでは音楽産業が著しい成長を遂げている最中で、多くの出版社がラグタイムを筆頭に様々なピアノ楽譜(シート・ミュージック)を
出版・販売し市場に音楽を提供していました。(往時はまだレコードも発達して無かったので、音楽は「楽譜を通じて」社会に流通していました) 
また、スコット・ジョプリンのヒット作を扱っていたことで今日にも名を残している 「スターク社」 も、
同じ1906年に中西部のセントルイスからニューヨークへ進出し販売店をオープンさせましたが、
ジョプリンのファンだったラムもこの店に足しげく通うようになります。

そんなある日、いつものようにジョプリンの楽譜を買い求めに来た際に
「ジョプリンの曲が大変に好きなので、持っていない楽譜は何でも欲しい」という話を、店にいたスターク婦人に話したところ、
店内に居合わせた黒人の男性が話しに加わって「どの曲を買えば良いか」アドバイスしてくれたそうです。
お礼を言って買い物を済ませたラムが、帰り際に「一度、尊敬するジョプリンに会ってみたいものですね」と付け加えると
「あら、そうなの」とスターク婦人が答え、先ほどの男性を指差して告げました。「彼が、その人よ」

その日、ラムはジョプリンと共にニューヨークの町並みを歩きながら音楽談義に花を咲かせ、
以来、ジョプリンは彼の親友・師として(1907年に亡くなるまで)様々なアドバイスをするなど親交を深めたのでした。
なお(公式に知られた)ラムのデビュー作である 「センセーション Sensation 」(1908) の出版の際も、
当初は渋っていたスターク氏に対して曲を推薦し、編曲者の名義を貸すことで販売支援をしたとされる逸話が残されています。
その後、1919年までの約10年に渡ってスターク社はラムのラグタイム作品を積極的に出版・販売し続け、
先行して取り扱っていたジョプリン及びジェームス・スコットと並んで、ジョセフ・ラムは後に「ラグタイムの3大作曲家」とし
て評されるようになります。彼の作風についての評論は他に譲りますが、
ジョプリンの緻密な構成力とスコットのピアニスティックな技巧を混ぜ合わせながら、
独自のメランコリックな哀愁を多様なリズムの中に活かす作風 が感じられることでしょう。

私生活では、1911年にヘンリエッタ・シュルツ Henrietta Schultz と結婚、彼女の実家があるニューヨークのブルックリンで新たな生活を始めます。
ラグタイム作品の作曲に併せて編曲者としての仕事も行う等の音楽活動は継続していたものの、
1914年に安定した収入を求めて家具関係の貿易会社に職を得ると、ラム自身は会社勤務の一般人として暮らしながら
演奏会や音楽・芸能界等とは一線を画す生活を送るようになります。(もともと、作曲と出版以外の活動はほとんどしていなかった訳ですが)
そのため、後にラグタイム・リバイバルが起きた際にも
「ラムというのは、ジョプリンのペンネームである」と信じれられていたとの逸話が残っているくらい、彼個人については無名のままでした。
それに加えて、1920年にヘンリエッタが病気で亡くなると、5歳になる一人息子のジョセフ・ジュニアを連れたラムは故郷のニュージャージーに戻り
姉のアナスタシアの一家に身を寄せることとなります。なお、ラム自身が伝えるところによれば、
この転居の際に多くの楽譜が行方知れずになってしまったそうです。仕事はニューヨークで続けていましたが、
ちょうどその頃から時代は新しい音楽「ジャズ」を求めるようになり、ラムも自作出版という表舞台から、徐々に遠ざかるようになりました。

1922年にニューヨーク在住の友人の妹だったアメリア・コリンズ Amellia Collins と結婚すると、
コリンズ家の近くに建てたブルックリンの新居に移転、息子のジョセフ・ジュニアを筆頭に1924年に生まれた長女のパトリシアほか
2人の息子らと共に、生涯をこの家で幸せに過ごしました。新しい家にもピアノが置かれ、ラムは終生の趣味として自宅での演奏を続けていましたが、
ラグタイム以降の新しい音楽スタイル(ノベルティ・ピアノ)の作品も「週末には家で作曲していた」と伝えられています。
なお、1929年には(会社勤めの合間に)一時的にミンストレルショウの音楽監督と楽曲提供を行っていたことが(今日では)明らかになっています。

1940年代になると、アメリカ国内で徐々にラグタイムへの関心が湧き上がり始め、スィング系ジャズ等のレコードに(アドリブ素材として)ラグタイムが
採り上げられ、録音される機会も増えてきました。
そんな1949年のある秋の日、初めてラグタイムを包括的に紹介する本を企画し執筆中だったルディ・ブレッシュ Rudi Blesh と
ハリエット・ジャニス Harriet Janis は、やっと探し当てたラムの自宅を訪れ、確信を持てないままにドアをノックするところでした。
しかし自宅には誰もいなかったため、近所の人に尋ねたところ結婚して近くに住んでいた娘のパトリシアの家を教えてもらったので、
今度はその家をノックすると幸いにもパトリシアは玄関に出てくれました。この見ず知らずの人物の質問に「確かにジョーは私の父ですが」と
パトリシアが応えたところ、ブレシュは静かな住宅地に響き渡るような大声で叫んだと言われています。
「ついに、見つけたぞ!」 そしてこの瞬間に、まさに ラグタイムの新しい歴史 が幕を開けたのでした。

その日の夕方、仕事から帰宅したラムの家を再び訪れたこの訪問者に対し、ラムの一家は当初、懐疑的な眼差しで対応していたと言われていますが、
それほどにラグタイムは時代の一線から遠のいており、またラム自身が過去の喧騒たる時代とは離れた場所で、この音楽を愛好していのだと言えましょう。
その時の様子を伝えるこんな逸話も残されています; 
ブレシュが、執筆中の本(They All Played Ragtime 「みんなラグタイムを演奏してた」)で貴方を紹介するつもりだ、と話したところ、
それを聞いたラムはこう尋ねたそうです。「ブレシュさん、その本に載るのに、いったい私は、いくら お支払いしないといけないんですかね?」

そんなラムを取り巻く環境にも、彼が会社勤めを正式に引退する1957年頃には変化の兆しが訪れていました。
50年代から始まったラグタイム復興や前述した本「They All Played Ragtime」の出版に併せて彼への評価が高まり始めており、
自身も新たな音楽生活を「第二の人生」として楽しみながら過ごすようになります。
そして 59年には(当時はまだ最新の機械だったテープレコーダーを使って)自宅でのピアノ録音が企画され最初の収録を実施、
その後も続けられた新たな録音からはインタビューと自作ラグの演奏を収めたレコード 「A Study in Classic Ragtime」 も製作され、
翌年 Folkways から発売されました。しかし、その翌年の 1960年 9月に、突然の心臓発作によりラムは自宅で急逝しました(9月 享年 72歳)。

帰らぬ人となったラムですが、彼の作品と名声の方はかってのように衰えることは無く、
1964年には多くの新曲が含まれた楽譜集 「Ragtime Treasures」 が新たに Mills Music から発売されます。
そして、二年後に発売された第3版の 「They All Played Ragtime」 にはアラスカ州が正式に米国に編入されたことにちなむ 
「Alaskan Rag」(1959) が収録されました。そして続く70年代には、スコット・ジョプリンのラグタイムを全面的に使用した
映画 「スティング Sting」 のヒットを契機に 世界的なラグタイム・ブーム が巻き起こります。
3大作曲家として知られるようになったラムの作品もレコードや演奏会に取り上げられる機会が増していき、
世界中に彼の名前と作品が行き渡る時代になりました。

そして近年では、未発表のラグや珍しい歌曲を含む楽譜集 「A Little Lost Lamb」 が Ragtime Press から数十年ぶりの新譜として 
2005年に発売され、また先の 2012年にはラムの子供達の協力を得て書かれた本格的な伝記 「Josepf F. Lamb - A Passion for Ragtime」 が
出版されるなど、未だに彼への関心は絶えることなく続いています。

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  2024/06/18   animato

サックス五重奏 7つの小品から 2.宗教的カンティレーヌ

サックス五重奏 7つの小品から 2.宗教的カンティレーヌ
テオドール・デュボア
2.Cantilene religieuse from 7 Pieces for Organ
Theodore Dubois

編成はソプラノ、アルト2本、テナー、バリトンです。
クラリネット五重奏、木管五重奏、金管五重奏版は発売中です。

たおやかなフランス・ロマン派の和声が溢れる作品をぜひ味わってください。

サックス五重奏 7つの小品から 2.宗教的カンティレーヌ
テオドール・デュボア
2.Cantilene religieuse from 7 Pieces for Organ
Theodore Dubois

編成はソプラノ、アルト2本、テナー、バリトンです。
クラリネット五重奏、木管五重奏、金管五重奏版は発売中です。

たおやかなフランス・ロマン派の和声が溢れる作品をぜひ味わってください。

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参考音源
https://youtu.be/HBuXTSkU7EQ

Youtubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCbc_7CUTWTYOuyu_WQcflxQ

アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

クレマン・フランソワ・テオドール・デュボワ(Clement Francois Theodore Dubois)による
「7 Pieces for Organ」(オルガンのための7つの小品)は、オルガンの演奏用に作曲された作品集です。
デュボワはフランスの作曲家で、19世紀末から20世紀初頭にかけて活動し、オルガン音楽においても
重要な作曲家の一人とされています。

特徴:
ジャンルと用途: 「7 Pieces for Organ」は、オルガン奏者やオルガニスト向けに書かれた作品集で、
宗教的な儀式や礼拝での演奏に適しています。オルガンは教会の礼拝で頻繁に使用され、
オルガン音楽は宗教音楽の一部として発展しました。

小品の形式: この作品集には合計で7つの小品が含まれており、各小品は異なるタイトルとキャラクターを持っています。
例えば、小品の中には「Prelude」(前奏曲)、「Offertoire」(奉納曲)、「Sortie」(退場曲)などが含まれていることが一般的です。
各小品は独立した楽曲として演奏されることがあります。
1.前奏曲(ハ短調) - Prelude (C minor):
前奏曲は、情熱的で荘厳な雰囲気を持つ曲です。ハ短調はしばしば力強く、感情的な音楽のキーとして知られており、
この前奏曲はその特性を生かしたものと言えます。オルガンの響きが堂々と響き、聴衆に印象的な音楽体験を提供します。

2.宗教的カンティレーヌ(ハ長調) - Cantilene religieuse (C major):
このカンティレーヌは、ハ長調の明るく美しい旋律が特徴です。宗教的な性格を持ち、聴衆に平和と神聖な感覚をもたらします。
ハ長調は希望や喜びのキーとして知られており、この曲はその感情を表現しています。

3.マルシエッタ(ヘ長調) - Marcietta (F major):
「マルシエッタ」は、ヘ長調の軽やかで舞曲風の小品です。明るく陽気な雰囲気があり、オルガンの音色が軽快に響きます。
これは聴衆を楽しませる素敵な音楽です。

4.間奏曲(変ホ長調) - Interlude (E♭ major):
「間奏曲」は、変ホ長調で書かれた穏やかな小品です。感傷的で美しい旋律が中心にあり、静謐な雰囲気を醸し出します。
オルガンの音色が宇宙的な響きを持っています。

5.祈り(ニ長調) - Priere (D major):
「祈り」は、ニ長調の優美な旋律が特徴で、熱心な祈りや精神的な静けさを表現しています。
オルガンの音色が感動的で、聴衆に神聖な瞬間を提供します。

6.後奏曲-歌(変ホ長調) - Postlude-Cantique (E♭ major):
「後奏曲-歌」は、変ホ長調の明るく華麗な音楽で、終わりの華やかな演奏を提供します。
この小品は美しい旋律と技巧的な演奏を組み合わせ、聴衆を感動させます。

7.行進曲・終曲(ト長調) - Marche-Sortie (G major):
最後の小品である「行進曲・終曲」は、ト長調の明るく華やかな行進曲です。
力強く演奏され、オルガンの響きが建物全体に広がります。終演にふさわしい華やかな曲で、聴衆に感謝と歓喜をもたらします。

これらの「7 Pieces for Organ」は、デュボワのオルガン作品の中でも特に人気があり、
オルガン奏者やクラシック音楽愛好家によって広く演奏されています。
各小品は異なるキーと感情を持ち、多彩な音楽的体験を提供します。

難易度: デュボワのオルガン作品は一般的に技巧的であり、オルガン奏者に高度な技術を要求します。
彼の作品はオルガニストの演奏技巧を披露する機会としても知られています。

宗教的な性格: デュボワの作品は宗教的な性格を持っており、キリスト教の礼拝や宗教的な儀式で演奏されることが多いです。
オルガンの豊かな音色と力強い響きは、宗教的な雰囲気を醸し出すのに適しています。

クレマン・デュボワの「7 Pieces for Organ」は、彼のオルガン音楽の中でも重要な作品の一つであり、オルガニストやオルガン愛好家にとっては魅力的なレパートリーとされています。これらの小品は宗教的な儀式やオルガンのコンサートで演奏され、オルガン音楽の豊かな伝統を示すものとなっています。
Clement Francois Theodore Dubois(1837年8月24日-1924年6月11日)は、フランスのロマンチックな作曲家、オルガニスト、音楽教師でした。
パリ音楽院で学んだ後、デュボアは1861年にフランスの最高の音楽賞であるローマ賞を受賞しました。彼はパリのいくつかの有名な教会で
オルガニスト兼合唱団長になり、同時に音楽院の教授として調和を教えました。 1871年から1891年まで、そして1891年から1896年まで作曲し、
アンブロワーズ・トーマスをコンセルヴァトワールの監督として引き継ぎました。
彼は前任者の厳密に保守的なカリキュラムを継続し、モダニストのモーリス・ラヴェルが勝つことを防ぐためにローマ賞の競争を
仕掛けようとした教員の試みをめぐってスキャンダルが勃発した後、早期に引退を余儀なくされました。
作曲家として、デュボアは有能で上品であると見なされていましたが、驚くほど独創的でも刺激を受けたものでもありませんでした。
彼はオペラ作曲家としてのキャリアを望んでいましたが、彼の教会の作曲でよりよく知られるようになりました。
彼の音楽理論に関する本は影響力があり、長年使用され続けました。

デュボアは、ランス近郊の村、マルヌのロスナイで生まれました。家族は音楽の職業とは関係がありませんでした。
彼の父ニコラスはバスケットメーカーであり、彼の祖父ジャンは学校の先生でした。彼の母親のセリニー・デュボア(旧姓シャルボニエ)は職業がなく、
主に若いテオドールを育てるために時間を費やしました。デュボアはランス大聖堂の聖歌隊指揮者であるルイ・ファナートにピアノを学び、
ロスナイ市長のヴィコント・ユージーン・ド・ブレイユの弟子であり、ピアニストのジャン・アンリ・ラヴィーナを紹介しました。
ラヴィナの連絡先を通じて、デュボアは1854年にダニエルオーベールが率いるパリ音楽院に入学しました。
彼はアントワーヌ・フランソワ・マルモンテルでピアノを、フランソワ・ブノワでオルガンを、フランソワ・バジンでハーモニーと 、
アンブロワーズ・トーマスで対位法と作曲を学びました。学生時代、彼は1855年からセントルイスデインヴァリデスで、
1858年からサントクロティルデ(セザールフランクの下)でオルガンを演奏することに従事していました。
そしてオルガン、そして最後に、1861年にフランスの最高の音楽賞であるローマ賞を受賞しました。

1861年12月から、デュボアはジュール・マスネを含む仲間の学生の友人になりました。
彼の研究の合間に、彼はローマとその周辺の田園地帯のモニュメントを訪れ、システィーナ礼拝堂の音楽演奏に出席し、ナポリ、ポンペイ、ヴェネツィア、
ヴェローナ、マントヴァ、ミラノ、フィレンツェを訪れました。彼はイタリアのクラシックスタイルの序曲で彼の印象を音楽的な形で与えました
buffo opera(La prova di opera seria オペラセリアのリハーサル)そして最後に荘厳ミサを作曲しました。
ローマ滞在中に出会った著名な音楽家の中には、ミサを聞いて若いデュボアを励ましたフランツリストがいました。

1866年にパリに戻ったデュボアは、サントクロティルデの聖歌隊指揮者に任命されました。1867年の聖金曜日に、彼の軍隊は彼の
レセプトパロールデュキリスト(キリストの最後の7つの言葉)を演奏しました。
カミーユサンサーンスとロマンビュシーヌが1871年に国民音楽協会を設立したとき、デュボアは、とりわけアンリデュパルク、 ガブリエルフォーレ、
セザールフランク、エルネストギロー、マスネとともに創設メンバーでした。同じ年に、彼はマドレーヌ教会の聖歌隊指揮者に任命されました。
普仏戦争中1870年から71年にかけて、彼は国家警備隊に加わりました。彼の伝記作家であるヒューズ・インベルトは、
「彼とサン=サーンスがマドレーヌ寺院で頻繁に会ったのは軍服で、一方は礼拝堂の聖歌隊を率い、もう一方は偉大なオルガンに登った」と記録しています。
両方の男性は、パリコミューンの血なまぐさい最後の日を逃れ、サンサーンスはイギリスに、デュボアはロスナイの彼の実家に逃れました。

デュボアは1871年に音楽院の学部に加わり、アントワーヌ・エルワートを調和の教授として引き継ぎました。彼は次の20年間そのポストを保持しました。
そして後に彼の作曲のクラスの生徒たちには、ポール・デュカス、ジョージ・エネスク、アルベリク・マニャール、フローラン・シュミットが
含まれていました。1872年8月、デュボアはピアニストのジャンヌデュビナージュ(1843-1922年)と結婚しました。
その父親はオペラコミックの指揮者でした。それは生涯にわたる幸せな結婚でした。彼らには2人の子供がいました。

デュボアはオペラ作曲家になるという野心を持っていましたが、パリの主要なオペラ会社に足場を築くことができませんでした。
古い劇場アテネでは、ジュール・バルビエとミシェル・カレによる台本付きの彼のワンアクト・ラグズラ・デ・レミール(エミールのリュート)が、
1873年にジャン・グレゴワール・ペナヴェールとポール・ラコームによる短いオペラの三重法案で首尾よく与えられました。 
1878年に彼はパリ市によって設立されたコンクールミュージカルで賞を受賞したベンジャミンゴダールと共有し、彼のパラディスペルドゥ(パラダイスロスト)は
最初に公費で1878年11月に行われました。

1877年にサンサーンスはマドレーヌのオルガニストとして引退しました。デュボアは彼に取って代わり、フォーレによって合唱指揮者として引き継がれました。
 1879年、デュボアはパリの主要な家の1つでオペラを上演しました。オペラ・コミック座は2月に一幕物のコメディー「ル・パン・ビス」を上演しました。
特に独創的ではありませんが、非常にエレガントで、優れたメロディーがいくつかあります。
フォーレと一緒に、デュボアは1880年7月にミュンヘンを訪れ、ワーグナーの タンホイザーとダイマイスターシンガーの公演に出席しました。
フォーレのように、デュボアはワーグナーの音楽に感銘を受けましたが、他のフランスの作曲家の多くがそうであったように、
それが彼自身の作曲に影響を与えることを許さなかったようです。

デュボアは、フランスの最高の家であるパリオペラ座でオペラを上演することに成功したことはありませんでしたが、1883年にロシタマウリを中心に、
デュボアの音楽に合わせた3幕のバレエ「ラファランドール」が上演されました。
音楽は目立ったインスピレーションや独創性はないものの、十分に書かれていて、全体の行動によく適していました。
この作品は人気があり、今後数年間にわたってオペラで頻繁に復活しました。同じ年にデュボアはのシュヴァリエに任命されたレジオンドヌール勲章を授与されました。

1884年、デュボアは4幕のオペラ「アベンハメット」で大成功を収めました。シャトレ広場のイタリア座劇場で開幕し、熱狂的に受け入れられましたが、
金融危機により劇場が廃業し、デュボアは歌手の未払い賃金を支払う個人的責任を負ったため、4回の公演後に閉館しました。

レオ・ドリーブが1891年1月に亡くなったとき、デュボアはコンセルヴァトワールの作曲教授として彼の後任に任命されました。
1894年にシャルル・グノーが亡くなった後、デュボアは芸術アカデミーのメンバーとして彼の後任に選出され、彼の伝記作家ジャン・パスラーによれば、
「彼の音楽の明晰さと理想主義」が認められた、と述べています。

1896年、1871年以来コンセルヴァトワールのディレクターであるトーマスが亡くなりました。対位法、フーガ、作曲の教授であるマスネは、
彼の後を継ぐことが広く期待されていましたが、フランス政府が拒否したとき、彼は学部を辞任しました。
デュボアは監督に任命され、トーマスの非妥協的な保守体制を継続した。オーバー、ハレヴィ、特にマイアベーアの音楽は学生にとって正しいモデルと見なされ、
ラモーのような古いフランス音楽やワーグナーの音楽を含む現代音楽はカリキュラムから厳しく排除されました。
デュボアは絶え間なく敵対的だったモーリス・ラヴェルは、コンセルヴァトワールの学生が学部の反モダニズムに従わなかったとき、
1902年にデュボアはドビュッシーの画期的な新しいオペラ、ペレアスとメリザンドの公演に出席することをコンセルヴァトワールの学生に禁じました。

1905年6月、デュボアは、ラヴェルがローマ賞を受賞するのを阻止しようとした教員の露骨な試みによって引き起こされた公のスキャンダルの後、
計画された引退を前倒しすることを余儀なくされました。フォーレは、デュボアの後任として任命され、フランス政府から機関を近代化するための簡単な
説明を受けました。

彼の私的な立場では、デュボアは彼が主宰した学問的レジームよりも反動的ではありませんでした。
ワーグナーのパルジファルが1914年に遅れてパリで初演されたとき、デュボアは同僚のジョルジュユエに、
これほど美しい音楽はこれまでに書かれたことがないと語りました。
個人的に彼はドビュッシーの音楽に魅了され、その「微妙なハーモニーとレ・プレシュー・ラフィネス」、つまり微妙なハーモニーと貴重な洗練を見出していました。

コンセルヴァトワールから引退した後も、デュボアはパリの音楽界でおなじみの人物であり続けました。彼はコンセルヴァトワール同窓会の会長であり、
毎年恒例の授賞式を主宰しました。彼の最後の年まで、彼は健康でした。1923年の彼の妻の死は彼が回復しなかった打撃であり、彼は短い病気の後、
1924年6月11日に86歳で彼のパリの家で亡くなりました。

1905年のデュボア
彼は多くの宗教的な作品を書きましたが、デュボアはオペラでの成功したキャリアに期待を持っていました。彼の中近東の主題への興味は、
彼の最初の舞台作品であるラグスレ・デ・レミールと彼の最初の4幕のオペラであるアベン・ハメットの作曲につながりました。
後者は、キャスト(エマ・カルヴェとジャン・ド・レシュケが率いる)と作品について素晴らしい注目を集めましたが、
通常のレパートリーでは場所を獲得しませんでした。
彼の他の大規模なオペラ、ザビエールは、「劇的な牧歌」と呼ばれ、オーヴェルニュの田舎を舞台にしています。
物語は、娘の相続を獲得するために彼女のフィアンセの父親の助けを借りて、娘のザビエールを殺そうと企んでいる未亡人の母親を中心に展開しています。
ザビエールは司祭の助けを借りて攻撃を生き延び、オペラは通常のハッピーエンドで終わります。

デュボアの音楽には、バレエ、オラトリオ、3つの交響曲も含まれています。彼の最も有名な作品は、
オラトリオ・レ・セプト・パロール・デュ・キリスト(「キリストの最後の七つの言葉」[1867])であり、これは時々演奏され続けています。
彼のトッカータは、通常のオルガンレパートリーに残っています。彼の残りの大きな作品群は、ほとんど完全に忘れられてしまいました。
彼の理論的作品であるTraitedecontrepointetde fugue(対位法とフーガ)とTraited'harmonietheoriqueetpratique(調和)は今日でも時々使用されていて、
彼は教育においてより永続的な影響力を持っています。

アトリエ・アニマート
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  2024/06/17   animato