Gallery

2022年2月24日

金管四重奏 フーガ(フランス風カンツォーネ)

金管四重奏 フーガ(フランス風カンツォーネ)
Canzona Francese
Giacomo Brignoli (c.1550-c.1600)

編成はTp.、Hn.、Tbn.またはEup.、Tubaです。
Hn.パートはTp.でも演奏可能です。
サックス四重奏版、木管四重奏版、クラリネット四重奏版は発売中です。

イタリア・バロック音楽の明快な作品を、ぜひお楽しみください。

金管四重奏 フーガ(フランス風カンツォーネ)
Canzona Francese
Giacomo Brignoli (c.1550-c.1600)

編成はTp.、Hn.、Tbn.またはEup.、Tubaです。
Hn.パートはTp.でも演奏可能です。
サックス四重奏版、木管四重奏版、クラリネット四重奏版は発売中です。

イタリア・バロック音楽の明快な作品を、ぜひお楽しみください。

b4.jpg
お求めの際はこちらからお願いします。

アトリエ・アニマート・ショップ
https://animato.official.ec/

参考音源
https://youtu.be/QWy2XZ9w6FE

Youtubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCbc_7CUTWTYOuyu_WQcflxQ

アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

ジャコモ・ブリニョーリはイタリア(ベルガモ)出身のオルガニストです。
この作品は1607年にオルガンのために書かれたBernhardSchmidjunのTabulaturbuchに収録されています。
明快な四声フーガで「フランス風カンツォーネ」の副題が付けられています。
原調はC Durです。出版時に2箇所の誤りだと思われる音があり、修正してあります。
よく知られているとは言えない作品ですが、シンプルな中にイタリアの明るい光を感じさせてくれるピースです。

「イタリア・バロック音楽」
 ルネッサンスの時代は、イタリアのフィレンツェとヴェネチアが、絵画の世界の中心でした。しかし、17世紀バロックの時代はローマが中心となります。
これは16世紀、プロテスタントの宗教改革の後、カトリック教会が立て直しを図った対抗宗教改革の成功によるものです。
この政策でカトリック教皇はローマの再建を図り、16世紀末に聖堂建築、都市整備が行われました。音楽家や美術家の仕事がたくさんあったのです。

 バロック様式は、17世紀初頭イタリアのローマで始まりました。それはすぐにヨーロッパ中をフランス、スペイン、ポルトガルへと広がり、
その後オーストリア、ドイツ、ロシアへと広がっていきました。このスタイルは、活気、コントラスト、精巧な装飾、深い色、また壮大さを使い、
驚きと畏怖の念を呼び起こすものでした。バロック様式は、建築、文学、絵画、彫刻、踊り、また音楽などあらゆる芸術に影響を与えました。

 バロック音楽の分野では、16世紀後半にイタリアのいくつかの都市でこの時代が始まりました。政治的独立と経済的多様性のおかげで、
これらの都市は、パレストリーナとディ・ラッソの作品で切り拓かれた後期ルネサンスの古典的な理想からは大きく逸脱した、いくつかの
ユニークで個人的な音楽スタイルを発展させました。
これらの都市の中でも最も言及に値する二つの都市は、文化と政治の中心地であるヴェネツィアとフィレンツェです。

 ヴェネツィアでは、聖マルコ教会がジョヴァンニ・ガブリエリのポリコラル音楽を発展させるための地理的な環境として機能していました。
このスタイルは、声楽と器楽を備えた、空間的にいくつかに分けられた合唱団を擁するという原則に基づいたものでした。
これは、同時に演奏する場合、後期ルネッサンス期の複雑な模倣的ポリフォニーの理想からは概念が大きく異なる、
より単純なホモリズミックな和音の感触を必要としていました。

 同じ時期のフィレンツェでは、フィレンツェのカメラータとして知られる知識人、人文主義者、芸術家らのグループが、
言葉と音楽が一つになりながら、ルネッサンスのマドリガーレとは異なる形で古典ギリシャ演劇の理想を模倣しようとしました。
音楽的な設定は、テキストの自然な話し言葉の抑揚を妨げてはならず、単語は可能な限り明確に表現されるべきとされます。
この新たな音楽の概念に付随する形で、ルネッサンスのモテットとマドリガーレの持つ複雑な対位法の性質には適していなかったので、
テキストに干渉しない楽器によって作られた単純な和音の感触に取って代えられました。
こうした発展は、モノディと呼ばれる新たな歌唱スタイルを生み出し、バロック音楽時代で最も重要な革新となりました。

 バロック時代の大きな成果の一つは、器楽音楽による音楽表現の真剣で独立した重要な手段としての確立でした。
ジョン・ダウランドのリュート歌曲のように、楽器は主に人間の歌声の伴奏として機能していました。
18世紀初頭にドメニコ・スカルラッティとヘンデルの貴重な出会いがありした。この二人の作曲家は、友好的な音楽コンクールを行い、
スカルラッティはチェンバロで、そしてヘンデルはオルガンで勝利を収めたのでした。

 この時代の社会変化と公共のコンサートの広がりによって、リュートの人気は下火になり、チェンバロとオルガンが台頭しました。
こうして作曲家たちの関心は鍵盤楽器へと転換されていきました。またこの時代には、いくつかの新たな楽器のジャンルが編み出され、
大きく発展を遂げた時代でもありました。有名なものでは、前奏曲、コラール前奏曲、フーガ、トッカータ、組曲、ソナタ、協奏曲、
またコンチェルト・グロッソなどがありました。

 クラシック音楽の世界では、バロック音楽のバッハ・ヘンデルが別格扱いになっていますし、古典ではモーツァルト・ベートーヴェンなどの
才能をあがめる人が多いのですが、イタリアバロックの作曲家では一般に有名なのはヴィヴァルディ、それに次いでせいぜい
コレルリぐらいで、ほかの作曲家たちは、あまり高い評価が与えられていない傾向があります。

 しかし、実は18世紀当時の西欧では、イタリアこそが、きらめく星のごとく最も多くの優れた音楽家たちが競う音楽の最先端の地域と
考えられていました。ヘンデルもバッハの息子たちもモーツァルトも、みんなイタリアで研鑽を積みました。
またイギリスのような、財力はあっても音楽文化はやや遅れていた国は、盛んにイタリアから音楽家を招いて音楽家不足を補っていました。

 イタリア・バロック音楽が忘れられた存在になってしまった経緯には理由があります。
たとえば絵画であれば、ルネサンスの大家・ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチの作品も、バロック時代のリューベンスや
レンブラントの作品も、いつでも教会や美術館で見られました。しかし音楽は、いくら楽譜は残っていても演奏されないことには
それは存在しないに等しいのです。そして、演奏する音楽家の数が限られている以上、過去の作品をしのぐ人気のある作品が次々に出てくれば、
演目は新しい作品に偏ってしまい、古い作品はしだいに埋もれていってしまいました。

 18世紀末からはドイツ・オーストリアにはハイドン・モーツァルト・ベートーヴェン・シューベルトら音楽史上最高の天才たちが続々と
登場したのに対し、19世紀イタリア音楽は、オペラにおいては重要な作曲家であるロッシーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、プッチーニなどが
挙げられますが、器楽曲とではドイツ・オーストリアに圧倒されていました。
現在に至ってもなお、クラシック音楽の演奏市場では19世紀作品が圧倒的な地位を占めていて、「バロック音楽」全体に対する需要が
少ないなかで「バロックはバッハとヘンデルで十分」といった雰囲気があります。

バッハやヘンデルやテレマンに決して劣らない素晴らしい才能を持ち、叙情性や色彩感などの点で、ドイツ系作曲家たちをはるかに凌駕する
魅力も豊かに持っている、イタリアバロックの名作の数々を心ゆくまで楽しみたいものです。

アトリエ・アニマート
https://animato-jp.net/

≫ 続きを読む

  2022/02/24   animato