西洋音楽の歴史5

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古代からルネサンス音楽
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■■初期キリスト教音楽

 キリスト教がローマにおいて公認されたのは,コンスタンティヌス大帝(在位306一337)在位中の3l3年である。キリスト教の説くところは,古代民族の間に行われていた偶像崇拝でも,エジプトやローマにおけるような統治者すなわち神という形でもなく,神は人々の心の中にあって,神の前では人問はすべて平等であり,同胞であるという考え方を基調としたものであった。したがって,皇帝を神のように崇拝することは,キリスト教徒にとっては不可能なことであり,そこから世に伝えられるような,キリスト教徒への迫害の歴史がつづられていくのである。しかしその反面,その迫害がキリスト教徒たちの団結を強めることになってしまったので,弾圧よりはむしろ公認すべきであるという意見へ,時の為政者の考えを改めさせることになった。そして前記のように3l3年に公認されたわけである。

 キリスト教が公認されるまでの信徒たちは,その迫害にもめげず,ひそかにカタコンベのようなところへ集まり,神への祈りをささげたが,そうしたおりに歌われていた聖歌が,後にグレゴリオ聖歌として実を結んでいくことになる。彼らの口ずさんだ聖歌は,非拍節的な単旋律の音楽で,歌うというよりは朗誦に近いものであった。しかし4世紀の初めごろには,三位一体説のアタナシウス派が他の宗派に対して正統派と認められ,その世紀の終わりごろには,アタナシウス派によるカトリック教がローマの国教と定められるに至った。

 こうして教会は制度的にも典礼式においても整えられるようになったが,ミラノの司教アンブロシウス(339?一397)が出るに及んで,聖歌に統一が与えられ,典礼の音楽がきわめてよく整えられた。そしてそれからほぼ2世紀後にグレゴリウスー世(540?一604)が現れて,キリスト教会における典礼の音楽の集大成が行われて,今日に続く音楽の歴史の大いなる基礎が確立されることとなった。

 この間にヨーロッパ世界は大きく変わった。キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝がビザンチンに遷都した結果,ローマは東西に分裂し,西方ラテン文化を中jL、とする西ローマ帝国と東方ギリシャ文化を継承する東ローマ帝国として,それぞれ独自の発展を見せた。しかし4世紀末になると,ゲルマン民族の大移動によって西ローマ帝国は滅亡し,ライン川沿いの地に建国されたフランク王国を中心、とするョーロッパ世界が始まった。そしてまた音楽も,古代から脱して中世的な世界へと移行していくことになる。

 

 

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