大宮島幻想 2/5

― グアムの横顔 ―

 ラッテ・ストーン公園横がスペイン広場である。ハガニアの中心地にある広場で、 かつてスペインの総督邸があったところだ。スペイン総督邸跡や、チョコレート・ハウス、聖母マリア大聖堂などが散在する。

 夕食はコドリス848でビュッフェ形式、まずまずの食生活が始まった。その後に今回連泊のP.I.C.グアムにチェックイン、グアムの夕暮れを満喫した。翌日の2日目は日米の激戦地となったアガットにあるガアンポイントを訪れた。


 グアムは大東亜戦争中、日本軍が占領した数少ない米領土の一つである。占領後、大宮島と名前を変え日本人の開発が始まったが、現地のチャモロ人の中にはアメリカ兵として子弟を出征させている人もいたりしたのだった。 グアム島はスペインが領有していたが米西戦争時の1898年、アメリカが占領、米領土にしていた。ミクロネシアの島の中で唯一、アメリカが手離さなかったのは、ハワイ・極東間の中継地としての重要性が故であり、その事情は現在も変わらない。

 西部太平洋地域に大日本帝国が進出したのは1919年、第一次世界大戦で国際連合軍に敗れたドイツが、当時支配していたグアム島を除く全マリアナ諸島の統治を放棄し、日本が国連から依託されて代行統治する事になった。1898年に米西戦争の結果米領となっていたグアム島は孤立した状態になっていた。 当時グアムはアメリカの統治国であり一般の日本人はビジネス駐在あるいは移民として在住していた。

 1941年(昭和16年)12月8日、第二次世界大戦(大東亜戦争)が勃発、日本軍はその日のうちにグアム島爆撃を開始した。真珠湾奇襲攻撃前の1941年12月4日、小笠原列島母島に集結していたグアム占領部隊約3000名はグアムに向けて出撃したのだった。

 7日夜にグアム島近海に到着、真珠湾奇襲攻撃直後の12月9日早朝より上陸作戦が開始され10日未明、日本海軍陸戦隊がアガナの東方海岸に上陸、ここで初めて米軍と交戦したが、米軍は少数の海兵隊員と現地民とで構成されており約30分の戦闘の後、白旗を掲げた。グアム島攻略における日本軍の戦死者はわずか1名だけだった。当時の米軍守備隊は軍人約400名を含め700名前後、占領の際、上陸した日本軍はその数約6000名足らず、海軍、警備隊、航空隊の兵員といった範囲で組織的な軍隊ではなかった。

 この島に本格的な守備要員の増強が始まったのは1944年(昭和19年)3月4日、第29師団(静岡、愛知)、23日には第48旅団(四国、東京)など満州に展開していた関東軍の精強が続々と上陸、4月上旬には総員約2万人近くに急増した。

  その後約2年半は平穏であったが、連合軍の反攻に伴い、マリアナ方面絶対国防圏の要として部隊の増強、施設の増設・整備が進められた。 しかし、昭和19年7月7日にはサイパンの日本軍が玉砕、絶対国防圏は崩壊した。

 既に陥落(同年6月27日)していたサイパン戦争の悲劇を鑑みて、日本軍はアメリカ軍が次に攻撃してくるであろう上陸ポイントを計算しており、事前に上陸海岸一帯への地雷の敷設、上陸後に戦場となる地域に縦深陣地を構築した。サイパンを完全占領した米軍は昭和19年7月21日グアム島攻略作戦を開始した。グアム島には第二十九師団(高品中将)と独立混成第四十九旅団を主力として2万810名が配置に着いていた。

 昭和19年7月21日、夜明け前から米軍の艦砲射撃が始まり、艦載機による爆撃・機銃射撃がくりかえされた。午前7時、水陸両用戦車と100隻以上の上陸用舟艇がロケット砲艇に先導支援され、見晴岬、昭和湾に殺到した。日本軍は応戦、攻防は夕刻まで繰り返し敢行されたが、米軍海兵隊約2万は昭和湾に上陸し橋頭堡を築いた。

 米軍は明石湾と昭和湾のニ方面から上陸してきた。 明石湾の海岸線では歩兵第十八聯隊が展開。後方の台地には第二十九師団の司令部を置いた。 21日の上陸開始の日にはもう主力どうしの戦闘となり、白兵戦となった。日本軍は多大な犠牲を出しながら抵抗した。 昭和湾方面では歩兵第三十八聯隊が米軍を迎え撃ったが、優勢な敵に次々突破され、初日で戦力は半減した。

 歩兵第三十八聯隊では21日夜、軍旗を奉焼したのち残存兵力のすべてが夜襲を決行した。米軍は照明弾を打ち上げ艦砲を集中、聯隊は朝までに全滅した。 22日から日本軍は明石湾後方の山岳地帯に兵力を集中させるが、米軍はじりじりと侵攻し日本軍の拠点を潰していった。26日からの総反撃に、残った陸海全ての日本軍が参加した。しかし肉弾戦は敵の重火器の前に撃退され、この日第十八聯隊はほぼ全滅した。 28日には本田台の第二十九師団司令部は三方から米軍に囲まれ、高品師団長戦死、上陸方面守備隊の戦闘は終結した。

 この作戦のため米軍は600隻の艦船、2000機の航空機、30万の兵力をグアムに集中、その内5万5千名を上陸部隊にあてた。 守備隊の基本的な作戦はサイパン同様水際作戦である。米軍は空爆と艦砲射撃を陣地に集中させ主要な重火器は殆ど上陸前に破壊した。米軍のグアム島上陸準備のための砲爆撃はサイパンよりも遥かに激烈であった。上陸までの15日間に延べ7500機の航空機から約7000トンの爆弾を投下し、昭和湾(アガット)、見晴岬(アサン)、明石湾(アガニャ)の防御陣地を粉砕し、3つの飛行場を襲い7月16日には日本軍の航空機はすべて無くなった。連日撃ち込まれた艦砲射撃による砲弾は2万8千発にものぼり、町は全焼し地形や植生までもが変わった。

(以上は転載を中心に再構成したものである。転載元のページは現存しない。)


 そんな悲痛な歴史を僅かに残すガアンポイントでは、椰子の木陰からオカヤドカリが現れた。激しい戦闘の跡形は見つけるに困難だが、改めて忘れてはならない教訓として心に刻みたい。

1/2/3/4/5


スペイン広場に向かう


コドリス848での夕食


P.I.C.グアムの夕暮れ


ガアンポイントのビーチ


防空壕が点在する


ビーチで出会ったオカヤドカリ


日本軍の2人乗り潜水艦

1/2/3/4/5

←前へ ↑もどる 次へ→