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2023年2月

木管四重奏 月光ソナタから第2楽章

木管四重奏 月光ソナタから第2楽章
Menuet from Sonate Op.27 No.2
Beethoven

編成はFl.、Ob.、Cl.、Bsn.です。
クラリネット四重奏、サックス四重奏、金管四重奏版は発売中です。

ベートーヴェンが書いた愛情に満ちたメロディーを、ぜひお楽しみください。

木管四重奏 月光ソナタから第2楽章
Menuet from Sonate Op.27 No.2
Beethoven

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参考音源
https://youtu.be/PT5Gc5ZolqM

Youtubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCbc_7CUTWTYOuyu_WQcflxQ

アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

1770年にドイツのボンという場所で誕生したベートーヴェンは、宮廷歌手をしていた父親からスパルタ教育を受け、音楽を学びました。しかしこの父親は浪費家で、
ベートーヴェンに音楽教育を施したのは、その才能をあてにするためだったようです。そして母親が亡くなってしまうと、ベートーヴェンは家計を支えながら
弟の世話をする生活を送りました。
しかし、ハイドンとの出会いをきっかけにウィーンに出ると、その後は各地で演奏旅行を行うようになりました。ところが、20代後半から耳の聞こえが悪くなる
症状が悪化していくと、28歳ではほとんど耳が聞こえない状態になってしまいます。そして「月光」を作曲した翌年、遺書を遺して自殺を
考えるまでに至りますが、ピアニスト兼作曲家から作曲のみに専念するようになると、その後もたくさんの有名作品を作曲しました。

40歳くらいには耳が全く聞こえない状態になってしまったとされていますが、その後の作品には、現在ベートーヴェンの作品の中でも特に有名な交響曲第9番、
日本で「第九」と呼ばれている作品が作曲されています。
生涯独身だったベートーヴェンですが、恋多き人生だったということもよく知られています。また冗談好きの変わり者だったそうですが、
癇癪を起すと暴力的になるという一面も持っていたようです。さらに、父親に似てしまったのかお酒がとても好きだったということもよく知られています。

見た目に関しては、身長はあまり高くなく165cmくらいだったようです。また、弟子にはあのカール・ツェルニーがいました。ベートーヴェンの逸話には、
ツェルニーの証言がよく登場しています。
この作品は1801年に作曲され、弟子だった伯爵令嬢のジュリエッタ・グイチャルディに献呈されました。しかし、14歳も離れていたこの女性との恋愛は、
身分の差もあり上手くはいかなかったようです。またこのピアノソナタは「月光」として知られていますが、実際のタイトルは「ピアノソナタ 第14番 幻想曲風ソナタ」でした。
ベートーヴェン自身が付けた「幻想曲風ソナタ」というタイトルよりも、「月光」という名前の方が広く知られるようになったのは、ルートヴィヒ・レルシュタープという人物の
コメントからだったようです。
ベートーヴェンは生涯に(幼少期の作品・未完の作品を除けば)32曲の「ピアノソナタ」という作品を書いていますが、
その中でも特に有名な3つのピアノソナタが「悲愴」「月光」「熱情」で「三大ピアノソナタ」と呼ばれています。

特に「月光」はベートーヴェンのピアノソナタの中でも異色の作品となっています。
ベートーヴェンの2曲セット『2つの幻想曲風ソナタ 作品27』の2曲目が、有名な〝月光ソナタ〟〝ムーンライトソナタ〟です。
ピアノソナタといえばまずこの曲の名が思い浮かぶ、ソナタの王者です。

降り注ぐ月の光のように幽玄な雰囲気を湛えるな第1楽章。
短いながら憧れで軽快で心踊る第2楽章。
地下から湧き上がるかのような激しい情熱が圧倒する第3楽章。

この曲は、1802年に出版された際、伯爵令嬢ジュリエッタ・グイッチャルディ(1784-1856)に献呈されました。
ジュリエッタは本名はユリアで、当時ハプスブルク家領だったイタリアのトリエステで生まれました。
父のフランツ・ヨーゼフ・グイッチャルディは、1800年にウィーン駐在のボヘミア領事館員になり、家族を伴ってウィーンに出てきます。
ジュリエッタの美貌はたちまち社交界の評判となりました。彼女は15歳でベートーヴェンに弟子入りします。

既にベートーヴェンに師事していたハンガリーのブルンスウィック姉妹、テレーゼとヨゼフィーネ(ダイム伯爵夫人)の従妹にあたり、そのご縁だったと考えられます。
ベートーヴェンはこの美しく才気ある美少女に夢中になります。
彼は、親友ヴェーゲラーに宛てた1801年11月16日付の手紙で、持病である胃腸病と難聴の悩みを打ち明けたあと、最近あることで気分が晴れたと言って、
次のように述べています。
私の人生はいま一度わずかに喜ばしいものとなり、私はまた外に出かけて人々の中にいます。この2年の間、私の暮らしがいかに侘しく、
悲しいものであったか信じがたいことでしょう。今回の変化は、ひとりの可愛い魅力に富んだ娘のためなのです。彼女は私を愛し、私も彼女を愛しています。
2年ぶりに幸福な瞬間がやってきました。結婚して幸せになれるだろうと考えたのは、これが初めてです。ただ、残念なことに身分が違うのです。
そして今は、今は私は彼女と結婚などできやしないのです。

ベートーヴェンはなかなか女性との交際について書き残していないので、珍しい記述です。
病に打ちひしがれ、2年間、人との交わりを避けて引きこもっていたのが、彼女との出会いで、再び世間に顔を出せるようになった、というのです。
ジュリエッタの人となりはあまり伝わっていませんが、明るい性格だったようです。
あの頑固なベートーヴェンの心を融かし、外に引っ張り出した女性です。
ベートーヴェンのことを好きだったのは間違いありませんが、真剣な恋愛というより〝先生大好き!〟といった感情だったかもしれません。

彼女は16、7歳。ベートーヴェンは30歳になっていましたが、自分の年を勘違いしていましたから本人は28歳くらいのつもりです
久しぶりに彼女ができて、しかも初めて結婚してもいいと思った、と告白しているのです。しかし、相手は伯爵令嬢。
身分違いで、結婚は最初からあきらめていたことも分かります。
このソナタが〝月光〟と呼ばれるようになったのは、音楽評論家のルートヴィヒ・レルシュタープ (1799-1860)が、
第1楽章を『スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう』を評したことによります。ベートーヴェンの死後5年経った、1832年のことでした。
そして、このキャッチコピーは、曲のイメージにベストマッチして、10年も経たないうちに〝ムーンライトソナタ〟の名が印刷物で出回ることになりました。
そして、この曲を聴く人は、誰もが静かな湖面に映る月の光を思い浮かべることになったのです。
しかしそれは、ベートーヴェンが全く意図していなかったことなのは言うまでもありません。

第2楽章 アレグレット
前楽章の最後の和音が消えるや否やに弾き始めるように、という指示があります。
ダンパーを上げる、という第1楽章の指示からも、「余韻」というのがこの曲のコンセプトかもしれません。通常のソナタでは第3楽章にあたる舞踏楽章ですが、
形式としてはメヌエットともスケルツォともいえません。フランツ・リストはこの曲を〝2つの深淵の中の一輪の花〟と評しました。
主部はレガートとスタッカートが呼応し、軽快なステップの中にも、何ともいえない甘美な想いがあふれます。
トリオはさらに幸福感が満ち、愛の言葉をささやいているかのようです。この楽章は、主調の嬰ハ短調の異名同音となる変ニ長調をとっていますが、
異名同音でも五度域が違っていますので、不思議な効果を生み出します。この手法はロマン派に大きな影響を与え、ショパンも『幻想即興曲』で使っています。

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  2023/02/28   animato

クラリネット五重奏 オーストリア民謡「レントラー」

クラリネット五重奏 オーストリア民謡「レントラー」
Laendler
Austrian Folk Song

編成はクラリネット4本、バスクラリネットです。
木管五重奏、サックス五重奏、金管五重奏版は発売中です。

サウンド・オブ・ミュージックの名曲をコンサート・ピースに、ぜひどうぞ。

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Laendler
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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

この曲は映画『サウンド・オブ・ミュージック』で、マリアとトラップ大佐が踊っている場面で使われているレントラーです。
二人の想いがはじめて通う重要なシーンでした。
素敵な踊りです。パーティー会場内では、正装をした参加者がレントラーを踊り、テラスではトラップ大佐とマリアが子どもたちに見守られながら
二人で踊っていました。
二人の目が合うと、マリアはそれ以上踊り続けられない、顔を赤くして立ち尽くすマリアが印象的な宮廷舞踊としてのレントラーです。

オーストリアの踊りは、他のアルプス圏と共通します。3拍子のカップル・ダンスが主に踊られます。
世界的に有名なウインナー・ワルツ、ワルツと同じルーツのレントラー、ほとんど男性だけで踊られるシュープラッターなどはいずれも3拍子です。
他には、ポルカ、ショティッシュ、マズルカやカドリールも踊られます。

レントラー(独:Landler)は、3/4拍子の南ドイツの民族舞踊です。
18世紀末頃まで、現在のオーストリア、南ドイツ、スイス、スロベニアなどのアルプス山脈地方で踊られていました。
歴史的には13世紀頃から今日のチロル州とバイエルン州の農民が踊っていたヴェッラー(Weller)から発展した民族舞踊です。
2人一組で、飛んだりはねたりもする踊りです。レントラーの伴奏音楽は、純粋な器楽のこともあれば、ヨーデルのような歌が混ざることもあります。
19世紀ヨーロッパで舞踏会が一般的になると、レントラーはより速いテンポになり、より優雅さが追求されるようになり、
男性はHobnail(そこに釘が打ち付けてある長靴)を身につけるようになりました。これはワルツの前身だと考えられていますが、
系列的にはワルツ、ウィンナ・ワルツの親戚です。
クラシック音楽では、ベートーヴェン、シューベルトらもレントラーを作曲しています。
また、ブルックナー、マーラーは自身の交響曲の舞曲楽章で通常のスケルツォの代わりにレントラーを採用しました。
ベルクがヴァイオリン協奏曲で引用したケルンテンの民謡もレントラーであり、オペラ『ヴォツェック』の第2幕でもレントラーが演奏されます。
モーツァルトやハイドンのドイツ舞曲もレントラーに似ています。
ブリテンの『ピーター・グライムズ』でも、舞踏会のシーンでレントラーが演奏されます。

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  2023/02/27   animato

Solo+サックス四重奏+ ウルブ・マランドロ(ならず者 ハゲタカ)

Solo+サックス四重奏+ ウルブ・マランドロ(ならず者 ハゲタカ)
Urubu malandro
ルーリヴァル・デ・カルヴァーリョ
Lourival de Carvalho

編成はソロ楽器、アルト2本、テナー2本、ドラムス、マリンバ、エレキベース(バリトン)に加えて
パーカッション(Cabasa)で総勢9名です。
エレキベースはバリトンに変更可能でパート譜は同梱しています。

同梱のSoloパート楽譜はin F版(Hn.)、
in C版(Ob.、Mallet Perc.など)、
in C-Fl.版(Fl.、Pic.)、
in C低音版(Eup.、Bsn.、Tbn,、St.Bs.など)、
 Tubaは1オクターブ下げて演奏可能です。
in B版(Tp.、Cl.、Bs.Cl.、Sop.Sax.、T.Sax.など)、
in Es版(Es Cl.、A.Sax.、B.Sax.など)が含まれています。
多くの楽器がSoloを担当し、伴奏は下の編成も含め5種類から選ぶことができます。
金管四重奏版、クラリネット四重奏版、木管四重奏版、鍵盤打楽器二重奏版は発売中です。

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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

この曲はピシンギーニャがフルート・ソリストとして素晴らしい技術を発揮した、オイト・バトゥータスのレパートリーの中でも
最も成功した曲の一つです。
Ary Vasconcelos は、この器楽曲の起源を、20世紀初頭にリオデジャネイロ州北部カンポス市でクラリネット奏者の
マラキアスが集めた民謡モチーフであるとしています。
アルミランテの場合は、クラリネット奏者のロウリヴァル・デ・カルヴァーリョ、通称「ロウロ」が
「街のアコーディオン奏者」からテーマを集めたのでしょう。
しかし、その起源が何であれ、この曲はピシンギーニャが工夫を凝らしたヴァリエーションによって、古典的な曲となりました。
1923年、アルゼンチンでオイト・バトゥータスの伴奏による最初のレコード録音(レコード会社ビクター73.827-A)が行われました。
数年後、ピシンギーニャは、今度はギターのロジェリオ・ギマランイスとジョアン・フラザォン、カヴァキーニョのネルソン・アルヴェスとともに
「Urubu e o gaviao」と改題し、テーマを再録音(ビクター 33.262-B, 1930年にリリース)しました。
このレコードは、マーリオ・デ・アンドラーデによって「ブラジル・ディスコの秀作のひとつ」と分類されました。

Lourival Ignacio de Carvalho(1892年-1956年)は、Lourival de Carvalho(ルーリヴァル・デ・カルヴァーリョ)として知られ、
芸名Louroで広く知られ、ブラジルの作曲家、アレンジャー、クラリネティスト、サクソフォニスト、ベーシストでした。
リオデジャネイロのベルエポックから50年代半ばまでの音楽シーンで有名な彼は、優れた音楽品質のブラジル人作曲家でした。
ニテロイ市のバレット地区で生まれ育ち、貧しい背景から8歳で、彼は音楽に大きな関心を呼び起こし、管楽器の音を即興で演奏するために
マッチ箱で遊ぶというアイデアを生み出しました。そして当時からいくつかの曲を演奏しました。
少年時代から隣人の生地工場「CompanhiaManufactoraFluminense」で働きました。そこでは、彼の名前とブロンドの髪のために、
彼は「ブロンド」と呼ばれていました。
彼の職業のために、彼はすぐに「Centro Musical Fluminense」として知られるファクトリーバンドの音楽研究に紹介されました。

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  2023/02/26   animato

金管八重奏+ 第二組曲 作品28 から第4楽章 ダーガソンによる幻想曲

金管八重奏+ 第二組曲 作品28 から第4楽章 ダーガソンによる幻想曲
Suite for Military Band Op.28
4.Fantasia on the "Dargason"
Gustav Holst

編成はTp.3本、Hn.2本、Tbn.またはEup.2本、Tubaに加えて打楽器1~2名です。
サックス八重奏版、木管八重奏版、クラリネット八重奏版は発売中です。
上記4種類の各編成五重奏で第一組曲も発売中です。

ホルストのイギリス情緒豊かな名曲を、ぜひお楽しみください。

金管八重奏+ 第二組曲 作品28 から第4楽章 ダーガソンによる幻想曲
Suite for Military Band Op.28
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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

吹奏楽のための第二組曲(Suite for Military Band)作品28は、グスターヴ・ホルストが作曲した吹奏楽のための組曲です。
第1組曲変ホ長調作品28aと第2組曲ヘ長調作品28bの2曲があります。

当時はまだ吹奏楽というジャンルが完全には確立されておらず、イギリス軍楽隊もオーケストラからのアレンジ曲などを中心に演奏していました。
そんな中でホルストは管楽器と打楽器の編成からなる「第1組曲」「第2組曲」を書いたわけですが、やはり編成の関係もあって作曲された当初から
すぐに取り上げられたわけではありませんでした。
しかし、1920年代に入ってから公の場で演奏されるようになってくると、「第1組曲」「第2組曲」共に徐々に評価を上げるようになります。
そしてついには他の作曲者にも管楽器・打楽器の編成で独自の曲が構成できることを認識させるに至ります。
そういった点でホルストが吹奏楽の歴史において果たした役割は非常に大きいと言えるでしょう。
「吹奏楽の原点」とでも言ってもよい作品です。

ホルストは吹奏楽曲を複数残していますが、これらの組曲はその中でも初期の作品であり、ブラスバンドのための『ムーアサイド組曲』(1928年)などより
20年ほど前に書かれました。フレデリック・フェネルは「この作品における楽器法は、バンド編成を念頭に考え抜かれている」
「もしこのスコアを真に理解したならば、それは音楽と指揮というものすべてを理解したのと同じだ」と述べていて、
レイフ・ヴォーン・ウィリアムズの『イギリス民謡組曲』、パーシー・グレインジャーの『リンカンシャーの花束』などと並び、
吹奏楽の分野における古典的な演奏会用作品としてきわめて重要な作品です。
2曲を揃えた世界初録音は、フェネルとイーストマン・ウィンド・アンサンブルによって1955年に行われました。

第2組曲
1911年に現在の第3楽章を欠いた3楽章の形で作曲され、1921年に軍楽隊の編成が変更されたことを反映してか、
1922年に改訂が行われました。
現行の形での初演は1922年6月30日にロイヤル・アルバート・ホールで、王立軍学学校の吹奏楽団によって行われています。
1922年に出版され、コールドストリームガーズのバンドマスターを務めていたジェイムズ・ウィンドラム(James Causley Windram)に献呈されました。
1923年には初録音、1924年にはラジオ放送が行われ、第1組曲よりも早く一般に知られていました。

各楽章はそれぞれイングランドの民謡や舞曲に基づいて構成され、ホルストのそれへの関心の高さが窺えます。
民謡素材はジョージ・ガーディナー博士(Dr. George B. Gardiner)がハンプシャーで採譜したものからとられました。
用いられた民謡のいくつかは『6つの合唱曲』作品36b(1916年)でも扱われています。
のちにゴードン・ジェイコブによって『ハンプシャー組曲』("A Hampshire Suite")として管弦楽に編曲されています。

第1楽章 マーチ (March)
Allegro ヘ長調 - 変ロ短調 - ヘ長調 2/2拍子 三部形式
「グローリシャーズ」("Glorishers")と呼ばれるモリス・ダンス(英語版)の旋律、「スワンシー・タウン」("Swansea Town")と呼ばれる水夫の歌(Sea Shanty)、
「クローディ・バンクス」("Claudy Banks")が用いられています。

第2楽章 無言歌 (Song without Words "I'll love my love")
Andante ヘ短調 4/4拍子
「私の恋人を愛す」("I'll love my love")が用いられています。

第3楽章 鍛冶屋の歌 (Song of the Blacksmith)
Moderato e maestoso ヘ長調 4/4拍子
「鍛冶屋の歌」("Song of the Blacksmith")が用いられています。
作品36bの一曲として無伴奏合唱のために書かれたものが、ほぼそのまま転用されました。

第4楽章 ダーガソンによる幻想曲 (Fantasia on the "Dargason")
Allegro moderato ヘ長調 6/8拍子
「ダーガソン」("Dargason")と呼ばれる8小節の循環旋律が、冒頭から終結まで奏されています。
また「グリーンスリーブス」が対旋律に現れます。
弦楽合奏のための「セントポール組曲」の終曲にも転用されました。現行版は初稿よりも拡大されていて、
弦楽に移されたときのアイディアが改訂の際に採り入れられたと考えられています。

ホルストは1900年代中ごろに、学友のヴォーン・ウィリアムズらと共にイギリス各地の民俗音楽の採取と研究を行っていますが、
その優れた成果のひとつがこの組曲であると言えます。
 この作品の民俗的な節回しの旋律の醸し出す独特の哀感は、イギリス音楽ファンには堪えられない魅力です。
管楽器の表現力の豊かさも特筆すべきもので、吹奏楽の醍醐味を存分に味わえる作品でもあります。全曲の演奏時間は約12分です。

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  2023/02/25   animato

木管四重奏 4声のアリア

木管四重奏 4声のアリア
ハインリヒ・ビーバー
Arien a 4, C 53 (Biber, Heinrich Ignaz Franz von) 
1.Allegro-Adagio
2.Allamande
3.Amoresca
4.Gigue
5.Sonatina(Adagio)

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Bach以前の均整の取れた美しいドイツ・バロック音楽をお楽しみください。

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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

ビーバーによるドイツのヴァイオリンレパートリーに関する多くの重要な研究、およびBiber固有の初期の研究が注目される作曲家ですが、
多くの論文は残念ながら残っていません。バッハ(1685-1750)の生誕より40年早く生まれ、ウィーン、ザルツブルクで活躍した音楽家です。
彼の音楽を通して均整の取れた美しいバロック音楽の調べに触れることが出来ます。
4声のアリアは5曲から成っています。1.アレグロ - アダージョ 2.アラマンデ 3.アモレスカ 4.ジーグ 5.ソナチネ(アダージョ)です。
全曲を通して伸び伸びとした穏やかな曲調です。中でも4.ジーグが急速で快活な舞曲を思わせます。全曲演奏は8分40秒程度です。

《ビーバーの主な歴史》
ビーバーは1668年から1670年の間、チェコのクロムニェジーシュ城のヴァイオリニストを務めた後、ザルツブルクの宮廷楽団のヴァイオリニストとなり、
次いで1684年には、同楽団の宮廷楽長となりました。代表作に『ロザリオのソナタ』などがあります。ヴァイオリンの技巧にすぐれ、
彼のヴァイオリン作品には当時としてはかなり高度な技術を必要とするものが多く見られます。
彼はスコルダトゥーラという調弦を変えて演奏する技巧を多用しました。
ビーバーは生涯の大半をザルツブルグ大司教の宮廷で過ごしました。最初は執事の身分でしたが、1676年には音楽監督に出世しました。
ビーバーの息子、カール・ハインリッヒは、ザルツブルグ宮廷でW.A.モーツアルトの父親レオポルドの上司でした。

1644年
ボヘミアのストラージュポドラルスケムで生まれ、5月12日に「Hennericusfilius Martini e [t] MariaePiebers」として洗礼を受けました。
1644-1660年代
ウィーンでアントニオ・ベルタリやハインリッヒ・シュメルツァーにヴァイオリンを学んだ可能性があることはさまざまな時期に示唆されていますが、
ここ数年のビーバーの教育と訓練については何も知られていません。
1660年代
ビーバーはボヘミアのイエズス会体育館で勉強したかもしれません。彼は1660年代初頭にパヴェル・ヴェイヴァノフスキーとイエズス会の
訓練を受けたミュージシャンと接触していたので、これはオパバのイエズス会体育館であった可能性があります。
1663年
ビーバーの最初の現存する作品、サルヴェレジーナの日付[ソプラノ、vln、va da gamba、org用]
1668年以前
ビーバーはグラーツのヨハン・セイフリート・エッゲンベルク王子に雇われていました。
1669年
カーニバルのためのソナタヴァイオリンソロ[vlnとcontinuo用]を作曲
1670年
クロメルジーシュ・インサルタト病院を(事前の許可を得ずに)有名に去った後、今年の秋にザルツブルクの
マクシミリアン・ガンドルフ・フォン・クエンベルク大司教に就任しました。チロルのバイオリン製作者ヤコプ・シュタイナーは、
今年、ビーバーを「der vortreffliche Virtuos(素晴らしい名手)HerrBiber」と呼びました。
1670年代
ミステリーソナタのプレゼンテーション [vlnとcontinuoの15作品、ソロヴァイオリンの最後のパッサカリア]は、
一部の作品がクロメルジーシュでのビーバーの時代のものであったとしても、おそらくこの10年間に作成されました。
また、1670年代初頭、ビーバーの音楽の多くはコピーされてクロメルジーシュに運ばれ、今日も生き残っています。
1672年
5月30日にヘルブルン(ザルツブルク郊外)でマリア・ワイスと結婚
1674
晩課[8つのソロボイス、8つのリピエーノボイス、およびオーケストラ用]
1676年
Sonatae tam aris quam aulis servientes [教会と宮廷での演奏に適した12のソナタ、5?8部:弦と真鍮]ザルツブルクで出版されました。
カール1世司教はついに今年の奉仕からビーバーを解放する正式な文書を送りました。
1677年
レオポルト1世皇帝のために、ラクセンベルグ(ウィーン近郊)でソナタのいくつかを演奏します。レオポルト1世は彼に金の鎖を授与しました。
1679
ザルツブルク裁判所で副カペルマイスターを任命
1680年
ザルツブルクで出版されたメンサソノラ[弦楽器のための6つの組曲]
1681年
レオポルト1世のために再び公演し、貴族叙任を請願しましたが、彼の申請は却下されました。
1681年
ザルツブルクで作曲され、ニュルンベルクで出版されたソナタヴァイオリンソロ[vlnとbcの8つのソナタ]
1682年
ザルツブルク大司教区の創立1100周年を記念する祝賀会のために作曲されたMissaSalisburgensis
1682/3
ニュルンベルクで出版されたFidiciniumsacro -profanum [1/2 vlns、2 vla、bcの12ソナタ]
1684年
アンドレアス・ホーファーの死後、カペルマイスターに任命され、合唱学校の学部長に就任しました。
1690年
レオポルト1世に再び貴族叙任を請願しましたが、今回は成功しました。その結果、「ビーバーフォンビーバーン」という称号が与えられました。
その後、ビーバーは「大家令」(ラテン語:ダプフィファー、ドイツ語:トルチェス)に昇進し、彼の社会的キャリアの集大成となりました。
この時点で、ビーバーの給料は月に60ガルデンに上昇し、ワイン、パン、薪などのアイテムを含む無料のボードと宿泊施設がありました。
1690年
彼の出生地、ストラージュ・ポド・ラルスケムを訪れました。
アルミニオ、チラデュララヴィンス[ビーバーで唯一現存するオペラ]が作曲され、ヨハン・エルンスト・フォン・トゥーン大司教に捧げられました。
ビーバーの他のオペラや学校のドラマは1680年代と1690年代にさかのぼります。
1693年
Vesperae longiores ac breviores una cum litaniis Lauretanis [4つのソロの声、4つのリピエーノの声、弦、2つのtrb、およびorg]、
ザルツブルクで出版され、ヨハン・エルンスト・フォン・トゥーン大司教に捧げられました
1694年
彼のSingfundament [歌の論文]を書きました。
1696年
Harmonia artificioso-ariosa [7トリオソナタ]が公開されました。この出版物は、1712年に破損した印刷物で死後に再発行されました。
1704年
今年ザルツブルクで出版された彼の同僚ヨハン・バプティスト・サンバーによるManuductio ad Organum [音楽理論論文]への承認を書きました。
1704年
ザルツブルクで亡くなり、聖ペテロの墓地に埋葬されました。彼がゲトレイデガッセに住んでいた家には現在記念の盾がありますが、
彼の墓は見つかりません。

初期バロック音楽はイタリアを中心として展開していきましたが、イタリア意外で注目すべき音楽家たちが活躍していたのが
ドイツ(神聖ローマ帝国)です。特に、ハインリヒ・シュッツ(Heinrich Schutz 1585~1672)、
ヨハン・ヘルマン・シャイン(Johann Hermann Schein 1586~1630)、そして「北ドイツ・オルガン楽派」で紹介したザミュエル・シャイトの
三人は、先輩のハスラーやプレトリウスらを受け継いで、ドイツ音楽の基礎を固めた作曲家として音楽史上の重要な位置を占めています。
大バッハが直接間接に学んだ一世代前の巨匠たちであるラインケン,ブクステフーデ,パッヘルベルやビーバーなども重要です。

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  2023/02/24   animato

クラリネット四重奏 ファセイラ(気取った女性)、ワルツ

クラリネット四重奏 ファセイラ(気取った女性)、ワルツ
Faceira, Valsa
エルネスト・ナザレ
Ernesto Julio Nazareth

編成はCl.3本、Bs.Cl.です。
木管四重奏、サックス四重奏版、金管四重奏版は発売中です。
「ブラジルの魂そのもの」と讃えられるナザレの音楽を、ぜひお楽しみください。

クラリネット四重奏 ファセイラ(気取った女性)、ワルツ
Faceira, Valsa
エルネスト・ナザレ
Ernesto Julio Nazareth

編成はCl.3本、Bs.Cl.です。
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「ブラジルの魂そのもの」と讃えられるナザレの音楽を、ぜひお楽しみください。

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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

Faceira, Valsa ファセイラ(気取った女性)、ワルツ
原曲はト長調(ヘ長調アレンジ)のワルツです。「気取った女性」ではありますが少し憂いを湛えたような、やや物悲しいワルツです。
Bメロはホ短調で哀愁が漂います。Cメロはハ長調に転調し、ト長調のAメロが再現して曲を結びます。
特別に風変わりな旋律や和声を伴わず、音域も限られた中に収まっています。全曲を通して派手な跳躍や表現は見られません。
そんな曲調ですから、終始落ち着いた雰囲気を醸し出し、安らかな気持ちで演奏や鑑賞ができる作品です。

「ブラジルの魂そのもの」と讃えられるナザレの音楽を知らずしてブラジル音楽は語れません。
南国ののどかな風光と、アフリカの野性的なエネルギーと、ロマンティシズムが渾然と混じり、甘美で、ちょっぴり切ない独特の音楽が聞こえてきます。
ミニョーネはこう述べています。「私は1917年頃にEduardo Soutoの楽譜店でナザレに会ったことがある。ナザレは自作曲を決して急がず、
カンタービレで弾いていた。彼はこう言っていたよ、『私の作品はあちこちでメチャメチャに弾かれている。みんな速く弾きすぎだ。
特に "Apanhei-te, Cavaquinho" は酷いことになっている。あの曲はゆっくりと、左手はカヴァキーニョを思い浮かべてアルペジオで弾くもんだ』と。」

エルネスト・ジュリオ・ナザレー (Ernesto Julio Nazareth (またはNazare とも), 1863年3月20日 - 1934年2月4日)は、ブラジルのピアニスト・作曲家です。
一生をリオ・デ・ジャネイロで過ごしました。「ブラジル風タンゴ」やショーロなど、国内の民族音楽に影響されたピアノ曲を量産しました。
そのような作曲姿勢から、しばしば「ブラジルのショパン」と呼ばれています。ピアノ以外の音楽教育は学ばなかったため、
残された作品はサロン小品と声楽曲ばかりであり、管弦楽曲や室内楽・カンタータやオラトリオのような分野の大作はなく、作曲技法も必ずしも洗練されていません。
しかしながら、民衆音楽の影響のもとに切り開いた独自の素朴な詩境は、のちにヴィラ=ロボスから、「ブラジルの魂」と称賛されました。
中産階級ながらもあまり豊かでない下級官吏の家庭に生まれ、ショパンを愛する母親からピアノの手ほどきを受けました。
早い年齢でたぐい稀な音楽的才能が認められ、家族ぐるみで付き合いのあったアフロ=アメリカンの作曲家、
リュシアン・ランベールにも音楽の手ほどきを受けました。
1873年に母親が亡くなってからもピアノを学び、間もなく作曲も手がけるようになりました。
最初の出版作品のポルカ『ボセ・ベン・サービ"Voce Bem Sabe"』 (あなたはよく御存知)は、14歳になるまでに作曲・出版されました。
その後は、ショーロの楽士たちとたむろして、敏感で独特なリズム感を身につけました。マシシェ maxixe やルンドゥ lundu 、ショーロ choro 、
アフリカ系住民のダンスなど、さまざまな民族舞曲に影響されました。

長年ナザレーは、映画館オデオン座の待合室でピアニストとして働き、ここで最も有名な作品の一つ『オデオン』を作曲しました。
外国から数少ない音楽家がブラジルを訪問した際、オデオン座のナザレーの演奏を見学したといわれています。

1920年代初頭には、音楽ショップにピアニストとして雇われました。顧客が購入する際に持ち寄ってきた楽譜を見ながら、演奏し、
客の要望に沿うかどうかを確認して見せるのが任務でした。客の中に、ナザレー作品の楽譜を手ずから弾こうとする者がいると、止めさせて、
解釈が誤っていると苦情を言うのが常だったそうです。

ナザレーは、心底からのブラジル人音楽家であり、音楽は楽しまれるべきであるとして、それ以上を望みはしませんでした。
ほとんど独学であり、音楽活動のほとんどは、劇場や映画館の伴奏ピアニストとして、あるいは小劇場のアンサンブルでのピアニストとして、
演奏するのに振り当てられました。
そのような劇場アンサンブルの楽団員の知り合いには、後の大作曲家ヴィラ=ロボスがいて、当時はチェリストとして活動していました。
ナザレーはショーロの発展のおおもとであり、ヴィラ=ロボスは、これに基づき、後に自らの創作活動を繰り広げていったのです。

ナザレーは、ブラジルの民族音楽以外にも明らかに影響されていて、子供時代にむさぼるようにして学んだショパンの影響が中でも顕著です。
また、1869年にきら星のようにリオ・デ・ジャネイロにデビューして、瞬く間にブラジル楽壇を席巻したゴットシャルクの作風もナザレーにはお馴染みでした。
作品には、19世紀ヨーロッパのクラシック音楽の豊かな和声法がこだましながら、ナザレーの生地ブラジルの、シンコペーションをともなう
民族舞曲のリズム法に織り込まれてゆくのが認められます。そのうえ、アメリカ合衆国のラグタイムや初期のジャズの、小気味よいリズム感も健在である。これらの要素を統合して一つの有機体へとまとめ上げたことがナザレー独自の能力で、結果的には、ピアノ曲のレパートリーだけでなく、20世紀の音楽にも重要な貢献を果たしている。

ナザレーはショパンやその他のヨーロッパの作曲家から霊感を受けたように、逆に自らも、間接的とはいえ、ヨーロッパの作曲家に何かしらの影響を与えています。
フランス人作曲家のダリユス・ミヨーは、自伝の中で、ブラジル滞在中にリオ・デ・ジャネイロの映画館でナザレーがピアノを演奏する風景を回想しています。
ミヨーはその音楽のリズムにたちどころに虜となって、ブラジル音楽をきわめてやろうと決心したというのです。
その最終的な成果こそが、ミヨーのピアノ曲『ブラジルの想い出 Saudades do Brasil』でした。

ナザレーは「ブラジルのショパン」と呼ばれていますが、作品に副題を好んでつけた点で、ショパンとは違っています。
ショパンやフォーレよりもヨーロッパのサロン音楽の伝統に忠実だったといえます。
しかしながら19世紀から20世紀初頭まで、ヨーロッパではサロン小品にフランス語の題名をつける慣習がまだ根強く残っていたのに対して、
ナザレーは母語のポルトガル語に固執しました。
また題名によって、ドビュッシーやラヴェルのように、美術や文学からのインスピレーションをほのめかしたり、
リストのように詩的な連想を暗示することもありませんでした。
ナザレーの曲名には、しばしば第三者にとって謎めいた響きをもつものもありますが、それらは実在するスポーツチームやダンスクラブ、雑誌名など、
ナザレーの日常生活の周辺から切り取られたものばかりです。このような意味で、ナザレーは「ブラジルのショパン」と呼ぶよりは、むしろ
「ブラジルのクープラン」と呼んでこそふさわしいかも知れません。

およそ300曲のピアノ小品において、ナザレーはみごとに、大衆的なブラジル舞曲のエッセンスを捕まえています。
ナザレーは、厳密には都会の聴衆のために作曲したのですが、その作品には、(ブラジルで奴隷制が廃止された1888年以降の作品でも、)
アフリカ系民族音楽の豊かな影響が息づいています。ほとんどの曲に、スコット・ジョプリンが発想したようなシンコペーションが使われています。
ナザレーのピアノ曲には、ブラジルのありとあらゆるダンスが盛り込まれています。マシシ(英語版)、バトゥーキ(英語版)、 サンバ、
そして中でも重要なのがタンゴです。後に世界中を熱狂させ、席巻したタンゴが、ブラジル生まれだったというだけでなく、
実際にはナザレー自身の創り出したジャンルだったという証拠になるからです。
もしそれが間違いだったとしても、「ブラジル風タンゴ」の発展のほとんどにナザレーがかかわっていて、このジャンルに優に100曲を残しています。

最も有名な作品に、『ブレジェイロ(ろくでなし)"Brejeiro"』『アメノ・ヘゼダ"Ameno Reseda"』『バンビーノ(赤ん坊)"Bambino"』
『トラベッス(腕白坊主)"Travesso"』『フォン・フォン"Fon-Fon"』『テネブローズ(暗闇)"Tenebroso"』があります。
ナザレーが初めて「ショーロ」と呼んだ作品のうち、『アパニェイチ・カヴァキーニョ(頑張れカバキーニョ)"Apanhei-te Cavaquinho"』は、
さまざまな楽器アンサンブルによって演奏できる、古典的名作です。

晩年になって完全に聴覚を失うと、創作活動にも支障をきたしましたが、それでもブラジル国内ではなかなかナザレー人気は衰えませんでした。
ゴットシャルクやジョプリンを評価する人たちなら、ナザレーの残した魅力的な宝石たちをきっとたちまち気に入るに違いありません。

作曲者の死後から半世紀を経た近年になって、ナザレー作品を集めたアルバム制作が世界的にも相次いでいて、最近では伝記や、
作曲者に関するCD-ROMも発表されています。ナザレーは、クラシックとポピュラー音楽にまたがって活動したことから、ナザレーのピアノ曲は、
クラシックの学び手にも、ポピュラー音楽の学び手にも、有用な教材とされつつあります。

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  2023/02/23   animato

サックス五重奏 アラバマ・ジガー

サックス五重奏 アラバマ・ジガー
エドワード・クレイプール
Alabama Jigger
Edward B. Claypoole

編成はソプラノ、アルト2本、テナー、バリトンです。
木管五重奏、クラリネット五重奏、金管五重奏、
鍵盤打楽器コントラバス三重奏版は発売中です。
快活で弾むようなアメリカのラグタイム音楽を、ぜひお楽しみください。

サックス五重奏 アラバマ・ジガー
エドワード・クレイプール
Alabama Jigger
Edward B. Claypoole

編成はソプラノ、アルト2本、テナー、バリトンです。
木管五重奏、クラリネット五重奏、金管五重奏、
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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

1910年代のボルチモアでクレイプールによって作曲されたラグタイム、アラバマ・ジガーは人気バンドのヒット曲となりました。
酒の液量単位のジガーは1.5オンス(約45ml)です。ほぼショット・グラス(shot glass)1杯分に相当する量です。
酒の計量カップのジガー砂時計に似た形をしており、1オンスと1.5オンスの両方が計れるようになっていることが多いです。
アラバマ州では、公民権運動などの歴史、文化、伝説的な音楽、車、宇宙について学べたり、ビーチや山々、食を楽しめる南部の州です。
モンゴメリーとバーミンガムはアトランタから車で2時間半、モービルとガルフショアーズはニューオーリンズからほぼ同距離、
アラバマ州の街まではナッシュビルから車で数時間です。

エドワード・クレイプール
Edward B. Claypoole
作曲家
エドワード・クレイプールは、文字通り、宮廷作曲家でした。偉大な作曲家としての遺産を持ちながら、
彼はそのキャリアを法廷での仕事に費やしたのです。ボルチモアで、メリーランド州出身の裁判所書記官
ジェイムズ・ヤードリー・クレイプール大尉と妻メアリー(モリー)・H・グリーンの間に生まれたエディは、
ロバートG(1875/3/31)、ジェームズYジュニア(1876/6/4)、ジャンビエーブW(1879/10/11)、マーサアン(1881/10/31)たち
5人の子供の末っ子でした。クレイプール大尉はボルチモアの政治にも関与しており、庶民裁判所の書記官という立場で
友人たちの輪の一端を担っていました。エドワードは事実上、人生のすべてをボルチモアで過ごすことになります。
リトル・エディは幼い頃からピアノに惹かれ、その才能を誇らしげな母親がクッションの上に乗って曲を選びながら披露していました。
一時期、正式なレッスンを受けたこともありましたが、うまくいかなかったので、すぐに断念しました。その結果、エディはほとんど
独学でポピュラー音楽を中心に学び、和声や理論の訓練もせず、楽譜を書くこともできませんでした。後者については、
エディが出版用に作品を提出しようと思ったときに、高校の音楽教師が助けてくれました。初期の作品は、学校や地域の劇場で
発表するために書かれたものでした。しかし、すぐにインストゥルメンタル曲が続きました。
この曲は、ボルチモアの出版社コーエン・アンド・ヒューズ社からかなり良い評価を受けました。1895年10月、父親が亡くなります。
1900年の国勢調査では、エディの母親は未亡人と表示され、エディはまだ学校に通っていました。

エドワードが大活躍したのは、1903年のことでした。ちょっとだけ。このとき彼は、初期の音楽的成功にもかかわらず、
本当の仕事に就くことを決意しました。兄のロバートとジェームズも、父親と同じように事務員として働いており、一種の家族ぐるみの
付き合いでした。姉のジェシカとマーサがそれに続いたかどうかは定かではありません。そこで彼は、ボルチモアの裁判所に応募し、
裁判所事務官見習いとして就職することになりました。ところが、彼らは彼の演奏癖にとても寛容で、エドワードはその点では彼らの
代表的な存在でした。
いくつかの曲を演奏し、良いピアニストとしての評判を得たクレイプールは、1904年のセントルイスのルイス・クラーク博覧会に行きました。
そこで演奏し、また「パイク」曲の大きなカタログを出版し、彼自身の貢献もしました。パイクは、フェアグラウンドのすぐ外側の帯で、
現在進行中のエンターテイメントのほとんどが収容されていた場所でした。パイクへのハイキングは見本市では好評でしたが、
このような作品の多くはすぐに忘れ去られてしまいました。1904年7月9日号のミュージック・トレード・レビュー誌では、
"すぐに売れて、セントルイスとフェア周辺のバンドやオーケストラがすぐに演奏している "と宣伝されています。
研修中の裁判所書記官という新しい職で、エドワードは年に数曲しか発表できませんでしたが、たいていは出版用に採用されました。
ブロードウェイでは、彼の歌のうち3曲が2つの舞台に挿入され、2つのブレイクを果たしました。ひとつは1908年の『Nearly a Hero』で、
『I Don't Want to Marry You』と『My Sahara Belle』を含み、数ヶ月間、計116回上演されました。しかし、このショーは評判が悪く、
プロデューサーのリー・シュバートは「Nearly a Zero」と改名してはどうかと提案しました。クレイプールは、おそらくシーモア・ファースの
歌のうち数曲にのみ歌詞をつけたとされています。
第2作のThe Echo of 1910はMy Guiding Starを含み、53回という短い上演期間でしたが、クレイプールの確かな作曲家としての評判を
固めることに貢献しました。1910年のオフ・ブロードウェイでのもうひとつの作品『Theecho』では、さらに2曲を発表しましたが、
ヒット曲はありませんでした。しかし、1910年には明らかにボルチモアでの彼の足場はより強固なものになっていました。
国勢調査では、1908年に結婚したアデル・"アディ"・C・スパーリエと、1909年末に生まれた娘のオードリー・C・クレイプールと
一緒にいることが示されています。彼は法裁判所事務官として記載されていますが、音楽家としては記載されていません。

1910年代のボルチモアでは、170センチと小柄なエディは地元の有名人であり、さまざまな音楽活動に引っ張りだこでした。
アラバマ・ジガーは人気バンドのヒット曲となり、ルーベン・フォックス・トロットもそこそこ売れました。
そして彼は、正義の天秤を自分に有利になるように、-スケール-でひっくり返しました。
5つの異なる調性で演奏されるスケールにシンコペーションを適用するというシンプルなコンセプトで、クレイプールは
ラグタイムのヒットパレードに永久に残る地位を獲得したのです。
最初は美しいが限定版のピエロ・ジャケットで登場し(不可解なことに、かなり一般的な楽譜のジャケットに置き換えられた)、
「ラギング・ザ・スケール」はエディにとってセンセーションとなり、また、フォン・ティルザーの子会社アートミュージックが発行した
最初のカラフルな印刷物に続いて上陸した、ウィル・フォン・ティルザーのブロードウェイミュージック社でもセンセーションを起こしました。
この曲はよく売れ、国中でよく演奏され、ラグタイム時代の最も巧妙でシンプルな作品のひとつでした。この曲は、1年も経たないうちに、
何種類ものピアノロールに収録されるようになりました。このセンセーションで、かつての裁判所事務官は、印税をもらう代わりに、
この曲をそのまま売ってしまったので、合計25ドルしか稼げませんでした。
しかし、彼の曲はまだ需要がありました。Ragging the Scaleは1930年代にArtMusicから復刻されましたが、この直後、
クレイプールは執筆活動を休止しています。1920年の国勢調査では、クレイプール一家はまだボルチモアにいて、エドワードは
裁判所事務官として記載されています。
1920年代初頭、エドワードは再び試練を与えることを決意し、巧妙なDusting the Keysを思いつきました。この曲には、
トリオの中で演奏者が人差し指に布を当てて文字通り鍵盤の埃を払うという小さなギミックが実際に含まれていました。
この曲は、すぐに歌詞がつけられ、歌謡曲として完成し、またヒットしましたが、今度は完全にノベルティジャンルとなりました。
その後、彼は4曲のピアノ・ノベルティーを書き、いずれも1920年代にこのジャンルのリーダー的存在であったミルズミュージック社から
容易にプリントアップされることになりました。1929年にはASCAPにも加入しました。
ミルズ社のノベルティに続いて印刷された作品はほとんどなありませんでしたが、クレイプールは1920年代後半から1940年代にかけて、
ラジオで人気を博すようになりました。娘のオードリーは、1930年(彼が最終的に副書記官として卒業した頃)にはまだ
実家に住んでおり、ラジオやライブ会場で彼と一緒に歌っていました。1940年の国勢調査と1942年の徴兵カードは、
彼がプロのミュージシャンではなく、まだ裁判所書記官であることを強調しており、アディにとっては安心材料となったかもしれません。
1950年の国勢調査では、クレイプールはまだ裁判所事務官として市に雇用されており、離婚したオードリーは小売音楽会社の秘書として
働いていることがわかりました。エドワードはその頃、音楽業界から引退し、45年間勤めたボルチモア市の裁判所からも退いていました。
最も優秀な音楽家が引退してしまったのだから、裁判所もさぞかし寂しい思いをしたことだろうでしょう。
ちょうど彼がその仕事を辞めた頃に、一握りの作品が発表されました。悲しいかな、エドワードの引退生活は、あと2作を残しただけで、
わずか2年の間に、1952年初めに68歳で亡くなってしまったのです。しかし、ありがたいことに、彼の数々の素晴らしい曲は、
その後、引退した後も私たちを楽しませてくれています。

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  2023/02/22   animato

金管四重奏「3つの祈り(3つのオラゾン)」から第3曲

金管四重奏「3つの祈り(3つのオラゾン)」から第3曲
Alexandre Guilmant Trois Oraisons Op.94-1
Oraison No.1, Andante quasi adagio (A-flat major)

編成はTp.、Hn.、Tbn.またはEup.、Tubaです。
クラリネット四重奏、サックス四重奏、木管四重奏版は発売中です。
同じ4種類の編成で第1曲も発売中です。

フランス.ロマン派のコラールで、深く心安らぐ音楽をお楽しみください。

金管四重奏「3つの祈り(3つのオラゾン)」から第3曲
Alexandre Guilmant Trois Oraisons Op.94-1
Oraison No.1, Andante quasi adagio (A-flat major)

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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

アレクサンドル・ギルマン - Alexandre Guilmant (1837-1911)は、フランスのオルガニスト・作曲家です。
アレクサンドル・ギルマンは、コンサート・オルガン奏者として国際的な名声を博していました。30年間パリのトリニテ寺院のオルガニストを務め、
ウィドールの後任としてパリ・コンセルヴァトワールのオルガン科教授に就任しました。弟子にはマルセル・デュプレがいます。
ギルマンの名は、ウィドールと並んで、フランスのオルガン交響曲の発展に大きく寄与しました。
彼は同世代のオルガン音楽の第一人者であり、多くのオリジナル曲や初期のオルガン曲の編曲を提供しました。

父親の手ほどきを受けた後、ベルギー人のジャック=ニコラ・レメンスに師事し、郷里でオルガン奏者と音楽教師を務めました。
1871年にパリの聖トリニテ教会(後のオリヴィエ・メシアンがオルガニストを務めたことでも知られる)のオルガニストに任命されました。
1878年以降は旧トロカデロ宮でコンサートを開くなど、ヴィルトゥオーソとしての道を歩み、ヨーロッパの各地で演奏旅行を行い、
オルガン音楽のレパートリー拡大と普及に尽力しました。 また、後にアメリカでも演奏旅行を実現させ、フランス人で初めてアメリカで演奏会を行った
作曲家として認められる様になりました。
1894年にシャルル・ボルド(フランス語版)やヴァンサン・ダンディと共同でパリ・スコラ・カントルムを設立。
1897年にはシャルル=マリー・ヴィドールの後任として、パリ音楽院オルガン科教授に就任。門下にはマルセル・デュプレなどがいます。 
1909年に最愛の妻が亡くなると、自身も病に冒され、1911年に亡くなりました。 
アンドレ・ピロと共同で『オルガンの巨匠の書庫Archives des Maitres de l'Orgue 』を刊行、フランスの古典的なオルガン音楽が、
1894年から1914年にかけて10巻にわたって出版された。外国の古典的なオルガン音楽については、同じような曲集
『オルガン楽派の古典 l'Ecole classique de l'Orgue 』を出版しました。
主な作品
自分の楽器であるオルガンのための作品が多く残っています。 その他のジャンルにおける作品は演奏機会が稀ですが、2曲のオルガン付き交響曲をはじめ、
充実した和声語法、堅固で保守的な形式を備えています。また、「交響的断章」は、トロンボーンの主要レパートリーとして定着しています。

バイオグラフィー
ギルマンはムードンで生まれました。最初は父親、後にベルギーの巨匠ジャック・ニコラ・レメンスの学生であり、彼は生まれ故郷でオルガニストと教師になりました。
1871年に彼はパリのラトリニテ教会で定期的にオルガンを演奏するように任命され、この役職を30年間務めました。
ギルマンは、コンサートと教会の両方での即興演奏で知られていました。彼のインスピレーションはグレゴリオ聖歌から来ました、そして
彼はメロディーの彼の習得のために彼の同僚の間で大いに注目されました。それ以来、ギルマンは名人としてのキャリアをたどりました。
彼はアメリカ(その国をツアーした最初の主要なフランスのオルガニスト)、カナダ、そしてヨーロッパでコンサートを行い、特にイギリスを頻繁に訪れました。
彼のアメリカでの業績には、現在フィラデルフィアのワナメーカーオルガンの中核として保存されている世界最大のオルガンであるセントルイス万国博覧会での
40回以上のリサイタルの1904シリーズが含まれていました。
ギルマンは、彼の若い同僚であるアンドレピロとともに、1750年以前のフランスの多数の作曲家の作曲をまとめたスコアのコレクション、
ArchivesdesMaitresdel'Orgue(オルガンの巨匠のアーカイブ)を出版しました。コレクションは10巻で印刷され、最初は1898年、最後は1914年に印刷されました。
ギルマンは外国の作曲家によるオルガン作品のかなり類似した調査を提供し、l'EcoleClassiquedel'Orgue(オルガンの古典派)。
これらのアンソロジーは、ギルマン自身の時代から起こったすべての音楽学的発展にもかかわらず、古楽の非常に貴重な情報源であり続けています。
1894年、ギルマンはシャルル・ボルドとヴァンサン・ダンディとともにスコラ・カントルムを設立しました。
彼は1911年にパリ近郊のムードンにある自宅で死ぬまでそこで教えました。
さらに、1896年にシャルル・マリー・ウィドールをオルガン教師として引き継いだパリ国立高等音楽院で教えました。
教師として、ギルマント彼の優しさと細部へのこだわりで有名でした。彼の生徒たちの回想は、攻撃、解放、性格など、
メモのすべての側面に特に焦点を当てた説明を特徴としています。マルセル・デュプレは彼の多くの学生の中で最も有名でした。
その他にはオギュスタン・バリエ、ジョセフ・アーサー・ベルニエ、ジョゼフ・ボンネット、アレクサンドル・ウジェーヌ・セリエ、アベル・ドゥコー、
ガブリエル・デュポン、チャールズ・ヘンリー・ギャロウェイ、フィリップ・ヘイル、エドガーHenrichsen、エドゥーアード・ミナン、
およびエイミール・ポイロットがいます。
マルセル・デュプレに対するギルマンの関心は、マルセル・デュプレが子供の頃に始まりました。有名なマルセルの父であるアルバート・デュプレは、
息子が生まれる前の7年間、ギルマンにオルガンを学びました。デュプレの回想録には、ギルマンが生まれたときに母親を訪ね、
子供がオルガン奏者になることを宣言するという逸話が含まれています。幼少期を通して頻繁に訪れた後、マルセルデュプレは、
11歳で正式にギルマンに師事し始めました。この時から彼の死まで、ギルマンは若い巨匠を擁護し、彼のキャリアを前進させるために多くのことをしました。

クラレンス・エディとアレクサンドル・ギルマン、1898年
ギルマンは、熟練した非常に多作な作曲家でした。すべての主要なジャンルで大量の音楽を制作したウィドールとは異なり、
ギルマンはほぼ完全に自分の楽器であるオルガンの作品に専念していました。彼のオルガンの作品には次のものが含まれます。
「実用的なオルガニスト」、12冊の本で出版されました。18の「新しい部品」; と「L'Organisteliturgique」、10冊の本で出版されました。
ギルマンの8つのソナタは、ラトリニテのカヴァイレコルオルガンを念頭に置いて考案されたため、スタイルと形式がシンフォニックであり、
セザールフランクのシンフォニックオルガン作品やシャルルマリーウィドールのオルガン交響曲と並んでいます。
オルガンとオーケストラのためのソナタ第1番/交響曲第1番、作品42は、1930年代にセルゲイ・クーセビツキーによってプログラムされましたが、
イゴール・ブケトフがバトラー大学オーケストラとの1977年のライブ録音のためにそれを復活させるまで再び聞こえませんでした。
数は少ないですが、オルガン以外の楽器の作品も完全に無視されていません。たとえば、シンフォニックピースは、最も頻繁に演奏される
トロンボーンソロのひとつであり、プロと上級生の両方のトロンボーン奏者の間で長年の人気を誇っています。

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  2023/02/21   animato

木管四重奏 メンデルスゾーン 無言歌集 第2巻 作品30-1「瞑想」

木管四重奏 メンデルスゾーン 無言歌集 第2巻 作品30-1「瞑想」
Lied ohne Worte, Op.30-1 Contemplation
Mendelssohn, Felix

編成はFl.またはOb.、Cl.2本、Bsn.です。
金管四重奏版、クラリネット四重奏版、サックス四重奏版は発売中です。

可愛らしくもロマンチックで優美なメロディーを、ぜひお楽しみください。

木管四重奏 メンデルスゾーン 無言歌集 第2巻 作品30-1「瞑想」
Lied ohne Worte, Op.30-1 Contemplation
Mendelssohn, Felix

編成はFl.またはOb.、Cl.2本、Bsn.です。
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アトリエ・アニマート・ショップ
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参考音源
https://youtu.be/v8trskTz_mY

Youtubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCbc_7CUTWTYOuyu_WQcflxQ

アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

『無言歌集 Lieder ohne Worte』は、メンデルスゾーンが生涯にわたって作曲したピアノ独奏のための作品集です。
全8巻からなり、各巻6曲ずつで合計48曲が収められています。
メンデルスゾーンのピアノ作品として最も有名で、しかもロマン派の教材として取り上げられることの多いのが「無言歌集」です。
ワーグナーが「第一級の風景画家」と言ったように、メンデルスゾーンは情景描写や標題音楽の作曲において才能を発揮しています。
この“言葉のない歌曲”、「無言歌」、という形でメンデルスゾーンは心象風景や感情描写までも、表現しました。
歌曲風の旋律をもった器楽曲であるため、旋律線をはっきりと浮き立たせ、抒情的に演奏することが重要です。

メンデルスゾーンが活躍したこの時期、ブルジョアジーの家庭を中心に、ピアノが教養として普及しました。
そのため、家庭で気楽に弾ける作品が多く作られましたが、この《無言歌集》もその一つです。

《無言歌集》は各6曲ずつの計8集からなり、生前に出版されたのは、第6集までです。第7集は、1851年、第8集は1867年に出版されました。
1832年、第1集を出版したときには、メンデルスゾーンは、《ピアノのためのメロディー》と記していて、《無言歌集》の名称を
もつようになったのは1835年に第2集を出版してからのことでした。

標題をもっているものが多いのですが、作曲者自身によってつけられたものはわずかです。
実際、メンデルスゾーンは標題をつけることによって、音楽的な想像力が限定されることを嫌っていたようです。

この第1曲《瞑想》は滑らかなアルペッジョに乗せて優美な旋律が終始流れます。
原調は変ホ長調ですが中間部では頻繁に転調を繰り返し、表情をめまぐるしく変化させます。
瞑想している中での心の揺らぎを表現できれば素晴らしい演奏になるでしょう。

第2巻 作品30
出版年代:1835年

1.変ホ長調、アンダンテ・エスプレッシーヴォ 《瞑想》 (作曲年代不明)
2.変ロ短調、アレグロ・ディ・モルト 《安らぎもなく》 (作曲年代不明)
《心配》と呼ばれることもあります。
3.ホ長調、アダージョ・ノン・トロッポ 《慰め》 (作曲年代不明)
カトリック聖歌集第100番「しずかに神と」、讃美歌第30番および讃美歌21・第211番「朝風しずかに吹きて」として教会で歌われています。
4.ロ短調、アジタート・エ・コン・フォコ 《さすらい人》 (1834年1月30日作曲)
《道に迷って》とも呼ばれます。
5.ニ長調、アンダンテ・グラツィオーソ 《小川》 (1833年12月12日作曲)
6.嬰ヘ短調、アレグレット・トランクィロ 『ヴェネツィアの舟歌 第2』 (作曲年代不明)
メンデルスゾーンが自分でつけた『ヴェネツィアの舟歌』の第2番。

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  2023/02/20   animato

クラリネット四重奏 アダージョ

クラリネット四重奏 アダージョ
マルチェッロのオーボエ協奏曲に基づくチェンバロ協奏曲 ニ短調 BWV 974より
A.Marcello (J.S.Bach)
Adagio aus Cembalo Konzert d-moll BWV 974 nach dem Oboe-Konzert von Marcello

編成はCl.3本、Bs,Cl.です。
金管四重奏、サックス四重奏、木管四重奏版は発売中です。

Bachが一筆加えた装飾音で、深く心を揺さぶる音楽へと変容させる見事な技をお楽しみください。

クラリネット四重奏 アダージョ
マルチェッロのオーボエ協奏曲に基づくチェンバロ協奏曲 ニ短調 BWV 974より
A.Marcello (J.S.Bach)
Adagio aus Cembalo Konzert d-moll BWV 974 nach dem Oboe-Konzert von Marcello

編成はCl.3本、Bs,Cl.です。
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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

 バッハは若い頃、イタリアを訪れ、ヴェネチア楽派をはじめとする研究を行いました。
持ち帰った多くの楽譜の中からイタリアの協奏曲を多数チェンバロ・ソロ用に編曲しました。
これらの編曲のうち、アレッサンドロ・マルチェッロ(1669~1747)のオーボエ協奏曲ニ短調を元に編曲をした、
協奏曲BWV974 第2楽章アダージョは、現在でもグレン・グールドなどの著名なピアニストのレパートリーとして、
しばしば単独で演奏されています。短調の曲ですが最後は、長調の和音で終わるところなど1708年の作品とは思えないくらい
現代風な響きと内容の濃さは、この曲の魅力の虜となるでしょう。情感を込めて演奏をするにふさわしい作品です。

マルチェッロは、イタリア・バロックを代表する作曲家として活躍していました。アレッサンドロのオーボエ協奏曲は、
18世紀初頭に書かれたと言われ、彼の代表的な作品として現在でもオーボエの重要なレパートリーになっています。
このBachの編曲作品「Concerto d-Moll BWV974」の第2楽章「Adagio」は、そのシンプルな美しさが際立った秀逸な作品です。

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  2023/02/19   animato