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サックス五重奏 サラバンドIII

サックス五重奏 サラバンドIII
Sarabande III
Giuseppe Tartini 

編成はサックスのソプラノ、アルト2本、テナー、バリトンです。
ソプラノはアルトで演奏可能です。アルトのパート譜は同梱しています。
金管五重奏版、木管五重奏版、クラリネット五重奏版は発売中です。

イタリア・バロック音楽の美しい名曲を、ぜひお楽しみください。
お求めの際はこちらからお願いします。

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Sarabande III
Giuseppe Tartini 

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アトリエ・アニマート・ショップ
https://animato.official.ec/

参考音源
https://youtu.be/OwOb4pph9H8

Youtubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCbc_7CUTWTYOuyu_WQcflxQ

アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3

ジュゼッペ・タルティーニ(Giuseppe Tartini, 1692年4月8日 - 1770年2月26日)は、イタリアのバロック音楽の
作曲家・ヴァイオリニストです。

彼はイストリア半島のピラーノ(現・スロベニア領ピラン)出身。タルティーニの両親は彼をフランシスコ会の修道士にしようとしていたらしく、
そのために彼は基礎的な音楽の教練を受けていた。彼はパドヴァの大学で法律を勉強し、またそこでフェンシングの名手となりました。
1710年に父親が没した後、タルティーニはエリザベッタ・プレマゾーレ(Elisabetta Premazore)と結婚しました。
彼女は、もし彼の父親が生きていたならば、社会的身分の低さと年齢差ゆえに結婚に反対したであろう女性でした。
運悪く、エリザベッタはコルナーロ家の有力な貴族の寵愛を受けており、その貴族はすぐにタルティーニに誘拐の罪を押しつけました。
タルティーニはパドヴァを後にしてアッシジの聖フランシスコ修道会に入り、そのことで訴追から逃れることができました。
そして、この間に彼はヴァイオリンの演奏を始めたのです。

1716年にタルティーニがフランチェスコ・マリア・ヴェラチーニの演奏を聴いたとき、彼はその演奏に強い印象を受け、自分の技能に不満を抱き、
そのために彼は逃げるようにアンコーナへ移り住み、練習のために自室に閉じこもったという逸話があります。

タルティーニの技能は非凡な成長ぶりを見せ、1721年にはパドヴァのイル・サント礼拝堂付きの指揮者(カペルマイスター)に、彼が希望するならば
他の団体で演奏してもよいという契約つきで任命されました。

1726年にタルティーニはヴァイオリン教室をはじめ、ヨーロッパ中の学生達を引きつけた。徐々に彼は和声と音響学の理論に興味を持つようになり、
1750年以降生涯にわたって、彼は多くの学術論文を発表しました。

おそらく、タルティーニの最も有名な作品は《悪魔のトリル》でしょう。このソロ・ヴァイオリンソナタは、数多くの高度な技術を要求される
ダブルストップのトリルが必要とされ、近代の規範をもってしても難易度の高い曲です。
ある逸話によれば、タルティーニはアッシジに居た頃「自分のベッドの足元で悪魔がヴァイオリンを弾いている」という夢にインスピレーションを得て
このソナタを書いたと言われています。 今日の研究では作風の考察から1740年代後半以降の作との説が有力です。
また古代ギリシア・ローマ伝説をもとにしたヴァイオリン・ソナタ《捨てられたディド》もあります。

タルティーニの作品は、ほぼ全てがヴァイオリン協奏曲とヴァイオリンソナタです。例外的にヴィオラ・ダ・ガンバをソロとする協奏曲も書いています。
多くの同時代のイタリア人達とは異なり、タルティーニはオペラや教会音楽は全く作曲していません。
タルティーニの音楽は、学者達にとって不確かなものです。それは、彼が決して原稿に日付を記入しないことや、
過去に執筆されたあるいは既に演奏を終えた作品にさえ修正を加えたことなどにより、作品が制作された時期や修正が行われた時期、
その修正の範囲などを定めるのが難しくなっているためです。ドゥニアス(Dounias)とブレイナード(Brainard)の2人の学者が、タルティーニの作品を、
音楽の様式上の特徴に基づいて時期別に分類することを試みています。

作曲家としての活動に付け加えて、タルティーニは非常に実用性を好む音楽理論家でした。彼は、弦楽器に特に有用な聴覚現象である差音の発見者とされています。
彼は自らの発見を、論文Trattato di musica secondo la vera scienza dell'armonia(パドヴァ、1754年)で発表しています。

20世紀のイタリアの作曲家ルイージ・ダッラピッコラは、タルティーニのテーマをもとにした《タルティニアーナTartiniana》という小品を作っています。
タルティーニは音楽史上重要な位置を占めていますが、ほとんどのミュージシャンには「悪魔のトリル」ヴァイオリンソナタの作曲家としてのみ知られています。タルティーニは1692年にイストリア半島で生まれ、ピラノ市(現在はスロベニアのピラン)の政府高官の息子でした。彼の両親は彼が非常に若いときにタルティーニのために出家生活を選択しましたが、1708年に彼は音楽の指導のコースを追求するために彼の事務訓練を拒否しました。しかし、すぐに彼は法学部の学生としてパドヴァ大学に入学したようで、若い頃は訓練を受けた音楽家よりも決闘者や剣士として有名でした。まだ正式に神権の候補者であるにもかかわらず、タルティーニは1710年に結婚し、それによってパドヴァの司教の怒りを被り、しばらくの間アッシジの修道院に身を隠す必要があることに気づきました。彼は時間を有効に活用しました。明らかに彼は音楽を厳密に研究し、1714年までにアンコーナのオペラオーケストラに就職したようです。

1715年に妻と再会したタルティーニは、その後数年間、ヴァイオリンのテクニックを磨こうとして過ごしました。
伝説は、彼が器用さの同じ驚くべき偉業を達成することができるまで、彼が巨匠フランチェスコ・ベラチーニが演じて、
孤立して生きることを決心したのを聞いたということです。 
1720年までに、彼はパドヴァのセントアンソニーでオーケストラのソリストおよびリーダーとして従事しました。 
1740年に腕の怪我が彼のキャリアを深刻に制限するまで、タルティーニは当時の主要なヴァイオリニストとして広く評判を築いていたにもかかわらず、
聖アンソニーでの職務を果たしました。彼は1723年から1726年の間にプラハを長期訪問しました。
1765年に聖アンソニーから正式に引退したタルティーニは、1768年に苦しんだ軽度の脳卒中が彼をさらに無力化するまで、教師として活動を続けました。
タルティーニはベートーベンの誕生の年である1770年に亡くなりました。

タルティーニはヴァイオリン演奏の重要な学校の創設者であり、その後ピエトロ・ナルディーニやヨハン・ゴットリーブ・ナウマンなどの
著名な生徒たちによって広められました。彼は作曲家としての名声を求めていなかったため、タルティーニの音楽は彼の生涯でほとんど出版されませんでした。
約135のヴァイオリン協奏曲と200を超えるヴァイオリンソナタ(ただし、一部は偽物です)はまだ原稿の形で生き残っています。
わずかな神聖なボーカル作品(彼の人生の最後の年に作曲されたスターバト・マーテルなど)といくつかのシンフォニア、トリオソナタ、
4部構成のソナタがタルティーニのかなりの成果を締めくくっています。
ヴァイオリニストおよび作曲家としての活動に加えて、タルティーニは年月が経つにつれて音響と調和の理論にますます興味を持ち、
1754年の理論論文Trattato di musica secondo la vera scienza dell'armoniaは、現代の調和的思考を説明しようとしています。
倍音列の用語と、そのシリーズの「サブトーン」のタルティーニ自身の発見を促進するため。
その高尚な意図にもかかわらず(またはおそらくそれらのために)、Trattatoは特に正確または有益なテキストではありません。
しかし、それは音楽家にとって注目に値する研究です。
サラバンドIIIは、もともとヴァイオリンとキーボードのために作曲されました。
イタリア・バロック音楽の穏やかで美しい旋律が終始、曲を包み込んでいます。

アトリエ・アニマート
https://animato-jp.net/

  2022/03/15   animato
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