西洋音楽の歴史41

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国民楽派の音楽
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■■ロシアの国民楽派

 国家的にも文化的にも後進国であったロシアだが,l9世紀の後半にもなるとョーロッパの大国の一つになっていた。l86l年の農奴解放や,それを宜言したアレクサンドル二世の暗殺などがあって,国情的にはやや騒然としていたものの,いわゆる帝政ロシア時代の華麗な文化が開花した時期でもあった。

 ロシアにおける音楽活動は,主として外来の音楽を消化するという形で実践されていた。この国で最初に独自の音楽を創造したのはグリンカ(l804一1857)であった。このグリンカにダルゴムイシスキー(l8l3一1869)が続くが,先進諸国の音楽を学んだとはいうものの,様式的にはロマン主義的な音楽の殻を一歩も出ることはなかった。しかし,この二人に続いて現れたいわゆる五人組の作曲家たちになると,一転して民族色の濃い作品が作られるようになる。この五人のうちで正規の音楽教育を受けたのはバラキレフ(l837一l9l0)だけで,キュイ(l835一l9l8)は軍人,ボロディン(l833一l887)は化学者,リムスキー=コルサコフ(l844一l908)もムソルグスキー(l839一l88l)も出発は軍人であった。そのようなことが,彼らの音楽に,いわゆる玄人くささのない新鮮味を与えているのかもしれない。ことにムソルグスキーの音楽には,規則にとらわれない自由さがあり,素人なるがゆえに古い伝統に束縛されることもなく,和声法や楽器法などに思い切って新鮮さを出すこともできた。そのようなところが,ワーグナー以後,新しい技法を求めて模索の状態にあった作曲家たちを刺激し,ドビュッシーをはじめとする多くの作曲家に大きな影響を与えているのである。

 彼らのあとを引き継いだ作曲家には,リャードフ(l855一l9l4)やグラズノフ(l865一l936)がいる。次に続いて出たスクリャービン(1872一19l5)は,特異な作風を持つ作曲家として知られている。

 

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