西洋音楽の歴史3

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古代からルネサンス音楽
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■■ギリシャの音楽

 ギリシャ人世界が成立したのは紀元前l000年ごろであるが,その当時のオリエント諸国では諸民族の交替が激しく,一民族による繁栄が他民族によってくつがえされると,やがてその征服民族もまた新たなる征服者によって征服されてしまうという歴史を繰り返していた。文明や文化もそれに伴って変化はしていったが,征服民族によって被征服民族のそれが破壊されるということはなく,むしろそれぞれの民族性が反映され,加味された上で継承されていった。

 そうした社会情勢の中にあって,異種の民族的集団としてドナウ川方面から南下してきたギリシャ人たちは,都市国家の集合体としての弱点を,一朝有事の際の全国家的な団結ということで補い,古代世界における強固にして文化的に繁栄した国家を作り上げた。ギリシャ人は,もともとイオニア人・エオリア人・アカイア人・ドーリア人などのそれぞれの都市国家という形で国を形成していたから,ギリシャ人世界の成立と安定に伴って,彼らの間に共通の原語や宗教,あるいは文化を持つという意識が生まれた。そしてそこから,オリンピアの競技会やアポロン神殿中心の隣保同盟のような組織活動が出てきて,結果的にギリシャ民族としての民族意識への自覚がいっそう強められたのである。そして,その民族意識を育てるのに大きな役割を果たしたのが,ホメロス(紀元前9世紀ごろ)による「イーリアス」と「オデュッセイア」の二大叙事詩であった。このホメロスの叙事詩は,詩ではあったが,読むべきものというよりは聞くべきものとみなされており,キタラ(後のリラ)もしくはアウロス(オーボエ族の管楽器)で伴奏されるという形をっていた。この叙事詩に続いて,叙情詩も生まれた。これは女流詩人として名高いサッフォー(紀元前7世紀ごろ)に代表されるように,個人的な感情の世界を歌ったもので,より近代的な歌曲への近付きを示している。その後,アテネがペルシア戦争を契機として海上権を確保し,その繁栄と富とによって史上有名なアッティカ帝国を作り上げ,ギリシャ文明の最盛期を迎えたのである。この時代に特にもてはやされたものにギリシャ悲劇があり,その上演には二人ないしは三人の登場人物のほかに,合唱や舞踊なども加えられ,アウロスやキタラなども伴奏音楽に欠くことのできない役割を持たせられていた。ギリシャ人は,音楽を神と人とを結ぶ崇高な芸術と考えていた。そして,音楽によって表現される芸術性は倫理的な教化力と結び付き,その関係は不可分のものとして考えられていたので,そこからいわゆるエトス論(習性と天性,道徳)も生まれてきたし,国家的な体制の中では音楽は必須科目と考えられる要因が含まれていたのである。彼らが,後世にも伝えうる音組織を持ち,優れた音楽理論を作り上げていたことも当然であると言えよう。ヴァルター・ビオラは,古代の高度文明における音楽を「その一部として音楽を含んでいる音楽的内容が,大部分が人間によって創り出されたものであり,それゆえに自然の環境からは独立したものであった。」と述べていることから推測して,それ以前とは異なっていると言及していることの意味が,ここにおいていっそう明確なものとなるわけである。

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