ゴンドラクルーズ

サン・マルコ広場を通り抜けてゴンドラ乗り場へ急ぐ。40分の間、ゴンドリエレ(ゴンドラの船頭)のカンツォーネを聴きながら運河を漂い水都ならではの旅情を味わった。400以上ある橋の中でも「ため息の橋」はドゥカーレ宮と牢獄をつなぐ橋だ。有罪判決を受けた罪人が投獄される前に最後に外界を見てため息をつく場所であった。


ゴンドラに乗り大運河側を振り返る


いくつもの橋をくぐって進む


狭い水路では行き違いできるか不安になるが、そこはゴンドリエレの腕が冴える


反対側の大運河(グラン・カナル)に出た


振り返るとリアルト橋が見える


ここでも警察のパトロール船
速そうな船である、エンジン音が違う


再び小運河へ


少し広い場所もある


40分間のゴンドラクルーズを終えた

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世にも不思議な水都ヴェネツィア

西暦452年、ローマ帝国末期。イタリアの北東ベネト地方に住む人々は、押し寄せるフン族から逃れるために、ポー川とピアベ川がアドリア海に注ぐ河口の葦が一面に茂っているだけの潟に移り住んだ。これがヴェネツィアの始まりだ。彼らの新天地には魚の他には何もなく、住居を作る木材や石材も調達しなければならなかった。沼地の浅い部分に2メートルから5メートルほどの杭を大量に打ち込み、その上に石材を積み重ねて地盤を作った。その上に住居や広場や道路を作った。沼地の深い部分はさらに掘り下げて河口の水を流して船が行き交いできるようにしたのだ。1500年以上もの昔から何世紀にもわたって、人々が力を合わせ海の上にこのような街並みを築いてきたのだ。また、ヴェネツィア人は、自由の尊さをわきまえていた。航路の防衛、国有船の運航などは国家として取り組んだが、商品の売り買いは個々の商人に任せた。国有船には誰でも輸送料を払えば商品を積み込める。特に船乗りには、自分の商品を積み込む権利を認めていた。この制度によって貧しい家の出でも自分の才覚によって大きく飛躍する道が開かれていた。そして富を蓄えて、戦時に多額の寄付をすれば、貴族や国会議員にもなれたのである。

ヴェネツィアはカトリック教国ではあったが、法王庁の支配を拒否し、中世ヨーロッパを戦乱に巻き込んだ法王派と皇帝派の争いや、狂信的な異端裁判・魔女狩り、カトリックとプロテスタントとの抗争から逃れていた。ヴェネツィアでは、イスラム商人、ユダヤ商人、プロテスタントのドイツ人学生、ギリシャ正教の船乗りなど、多様な宗派が平和裏に共存し、交易で栄えていたのだ。また出版の自由も保証されヴェネツィアの出版業は当時のヨーロッパの中心であった。

驚くことに、人口10万人程度のヴェネツィアがかつては地中海貿易の2/3から3/4を独占していた。10世紀頃のヴェネツィアの主要な輸出品は木材と東欧からの奴隷であった。それらをエジプトのアレクサンドリアでイスラム商人に売って金銀で支払いを受け、その金銀でビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルの香辛料や布地、金銀の細工品、宝石類などの商品を買い込んでヴェネツィアに戻る。途中の寄港地アドリア海沿岸やペロポネソス半島、クレタ島、キプロス島などには植民都市を作って商船隊の保護を行った。特にアドリア海ではスラブやサラセンの海賊を取り締まる警察の役割を果たし、その代償としてビザンチン帝国内での自由な商業活動を認められた。帝国の首都コンスタンチノープルには専用の居住区を設け、約一万人ものヴェネツィア人がいたといわれている。

しかし諸民族の入り混じる東地中海で交易を維持するためには、他国との絶えざる争いを続けなければならなかった。1204年、第4次十字軍の中核としてコンスタンチノープルを征服し、東地中海の覇者となると1258年から約120年間、ライバルの都市国家ジェノバとの4度にわたる戦いを続け、さらに1470年からは、250年間にわたって、宿敵トルコと7度もの死闘を戦い抜いた。当時のトルコは人口1600万の大国である。北イタリアに広がっていた属領を含めてもヴェネツィアは145万、トルコはヴェネツィア10倍以上の大敵であった。このように激しく戦い続けながら、697年の初代元首就任から1797年ナポレオンにより征服されるまでの1100年間、ヴェネツィアは独立を維持したのだ。 ■参考文献「海の都の物語」 塩野七生(中央公論社)

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