ジャコモ・プッチーニ考 

長崎は異国情緒溢れる街だ。また悲しいキリシタンの歴史とともに先の戦争では原爆の被害をも刻み込まれた街でもある。オランダ坂〜孔子廟〜グラバー園〜出島和蘭商館跡〜眼鏡橋〜と観光名所も数えきれない。

京都では見られなくなって久しい路面電車も旅人の心を沸き立たせてくれる。長崎駅前から、この電車に乗ることにした。まずは平和公園に向かう。

平和祈念像は「平和は長崎から」のスローガンのもと、世界の平和を願って昭和30年に完成した。高さは9.7メートル、重さ30トンの青銅製。天を指した右手は原爆の恐ろしさを示し、水兵に伸ばした左手は平和を呼びかけ、顔は原爆犠牲者の冥福を祈っている。平和祈念像は、劣化による損傷が激しいため、修復工事が行われ、平成12年2月に新しい姿が公開された。

公園内の「平和の泉」には被爆し、水を求めてさまよった少女の手記「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」が刻まれている。

 聖フィリッボ・デ・ヘススはこの地で殉教した26聖人の一人で、メキシコ出身の修道士だった。教会は1962(昭和37)年、日本26聖人列聖100周年記念として、記念館(資料館)、記念碑(レリーフ)と共に建てられた。
 教会の2本の塔は、向かって左が聖母マリアに奉献され、右は精霊に奉献されています。塔に張り付けられた陶片は人々の生活をあらわしている。建物全体は祈りの天使をイメージしたものである。
 教会の26聖人記念碑に面したところに、かつて26聖人が歩いた道を示す「浦上街道ここに始まる」とした小さな標識がある。

日本26聖人殉教地。1597年2月5日、豊臣秀吉のキリシタン禁教令のため、京都や大阪などで捕らえられた外国人宣教師6名、日本人信者20名がこの地で処刑された。

1862年、ローマ法王・ピオ9世から26人の殉教者は聖人に列せられ、1950年、ローマ教皇ピオ12世は、この地をカトリック教徒の公式巡礼地として指定。この地は、1956年4月、長崎県の史跡として指定を受けた。
1962年、「二十六聖人」列聖百年を記念して26人が一列に並び祈りを捧げる姿が彫られた記念碑とキリシタン関係の資料が展示されている殉教記念館が建てられ、ガウディー設計の聖家族教会を模した塔2本も隣接して建っている。1981年2月、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世がこの地を訪れ祈りを捧げられ、今も、国際的巡礼地「殉教の丘」として国内外から巡礼者が訪れている。

1862年6月8日、教皇ピオ9世によって26人の殉教者は聖人の列に加えられた。そして3年後、26聖人に捧げて、大浦天守堂が西坂の丘に向けて建てられた。

「人若し我に従わんと欲せば、己を捨て十字架をとりて我に従うべし」
(マルコ第8章)

「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままで残る。しかし、死ねば、豊かに実を結ぶ」
(ヨハネ12-24)

日本26聖人記念館
開館時間 9:00〜17:00
休館日  12月31日〜1月2日
入館料  個人:一般 250円 / 中・高校生 150円 / 小学生 100円
団体:一般 200円 / 中・高校生 100円 / 小学生 80円(20人以上、1人につき)
Tel.095-822-6000

キリシタン禁制の高札
元和2年5月 下総

 1549年(天文18年)フランシスコ・ザビエルの来日によってキリスト教の布教が始まった。西洋との交流が始まりヨーロッパ人が日本を訪れるようになると、彼等のもたらす異国の文化が非常に珍しいものに映った諸大名達は、貿易による利益とともに南蛮人と称して彼等を受け入れた。
 しかし、天下統一を果たした豊臣秀吉は1587(天正15)年6月19日、突然に「伴天連追放令」を出し、キリスト教を禁じ、宣教師に国外退去を命じた。

キリスト教に不安を感じた秀吉は、12月8日夜、フランシスコ会士およびその信者に対する逮捕令を出した。

 9日、京都フランシスコ会聖堂にいたレオン烏丸、パウロ鈴木、ボナペントゥラ、トマス小崎、およびガブリエルの5人が逮捕された。
 10日、アンドレス小笠原の家でパウロ三木、ヨハネ五島、ディエゴ喜斎の3人がが拘束され、そして、京都、大阪に居た宣教師と熱心な信者達がつぎづと捕えられた。
 捕えた24人の修道会士と信者達は、処刑を決めた秀吉の命により、翌年1月3日、見せしめのために鼻と耳を削ぎ落とされ、京都の目抜き通りを牛に引かせた荷車に乗せられて引き回わされた。翌4日明け方、牢を引き出された24人は、大阪、堺と引き回され、堺の牢に監禁された。

 

 1月8日、ついに秀吉は24人を長崎で磔刑にする判決を下した。
 翌9日、堺を出発した殉教者達は、殉教者の世話をするために付き添い、執拗に願い出て後に殉教者に加わったペトロ助四郎と、殉教者を最後まで見届けようと心に誓い、願って殉教者に加わった熱心な信者フランシスコ吉の2人と共に、遥かな殉教の地長崎・西坂の丘へ向かって歩き始めた。
 2月5日朝、西坂の丘は処刑される殉教者を一目見ようとする人々で埋められていた。
 殉教の地へたどり着いた26人の殉教者達は、十字架に縛り付けられ、その十字架は一列に並べて西坂の丘に建てられた。
 処刑が始まり、若い修道士フィリッポ・デ・ヘススが槍で突かれ、最初の血を流した。アントニオとルドビコの2人の少年は賛えの歌「子らよ、主をたたえよ」を歌い、その歌声が終わるか終わらぬうちに槍で突かれた。

 こうして次々に処刑は進み、最後にペトロ・バプチスタ司祭が尊い血を流して、処刑は終わったのだ。
 その後、鎖国が終わりキリスト教への迫害が終焉するまでに、西坂の丘では600人を越えるキリスト教信者の尊い血が流された。

 9日、京都フランシスコ会聖堂にいたレオン烏丸、パウロ鈴木、ボナペントゥラ、トマス小崎、およびガブリエルの5人が逮捕された。
 10日、アンドレス小笠原の家でパウロ三木、ヨハネ五島、ディエゴ喜斎の3人がが拘束され、そして、京都、大阪に居た宣教師と熱心な信者達がつぎづと捕えられた。
 捕えた24人の修道会士と信者達は、処刑を決めた秀吉の命により、翌年1月3日、見せしめのために鼻と耳を削ぎ落とされ、京都の目抜き通りを牛に引かせた荷車に乗せられて引き回わされた。翌4日明け方、牢を引き出された24人は、大阪、堺と引き回され、堺の牢に監禁された。

いよいよグラバー園である。
Glover Garden

JR長崎駅から市電1番正覚寺下行10分築町乗換石橋行10分大浦天主堂下下車徒歩5分 長崎港を見下ろす南山手の高台に位置する。約3haの庭園内に、グラバー邸を中心に古い洋館8棟を集めて復元したものである。

リンガー邸
Ringer House

左の写真は英国人フレデリック・リンガー氏の遺邸で、グラバー邸より一段高い南山手の一角に建っ ている。フレデリック・リンガーは元和元年(1864年)頃、上海から渡米しグラバ ー商会のメンバーとなった。その後、明治初期になってグラバーの商権はリンガーの手に移り明治・大正・昭和の初期を通じて凡ゆる産業を指導、奨励し、海外貿易の発展に寄与した。

グラバー邸
Glover House

安政6年(1859年)、長崎に来て貿易業を営むかたわら、日本の近代化に大いに貢献 した英国人トーマス・ブレーク・グラバーの遺邸である。この館はグラバー氏が自ら設計し、日本人大工 に建てさせたわが国最古の洋風木造建築として、昭和36年に国の重要文化財に指定された。

グラバー邸内に展示されているアップライト・ピアノ。

浦川茂氏の寄贈品だ。左右には燭台が2本。鍵盤カバーの内側にはA.STEINMEYERと記されている。どんな音がするのか一度弾いてみたかったが、立入禁止になっており、残念ながら試奏は諦める。

19世紀の末には、自然主義のひとつの現れととも言える文学上のヴェリズモ Verismo(真実主義)の流れを汲んだ、ヴェリズモのオペラが生まれた。日常生活の中に起こりうる劇的な事件を扱ったマスカーニ(P. Mascagni 1863-1945)の「カヴァレリア・ルスティカーナ(Cavalleria rusticana)」(1891)やレオンカヴァッロ(R. Leoncavallo 1858-1919)の「道化師(I pagliacci)」(1893)などがその代表作であり、プッチーニ(G. Puccini 1858-1924)にもヴェリズモの作風の影響が認められる。19世紀末から20世紀初頭にかけてプッチーニは、真実主義的な作風から異国趣味を反映した「蝶々夫人(Madama Butterfly)」(1904)や「トゥーランドット(Turandot)」(1926)などの作品で抒情的な旋律に近代的な和声を配しつつ巧みな劇的展開を行った。

歴史の泉にある三浦環像。戦後は、歌劇マダム・バタフライの記念碑を園内に建立する計画をめぐり、モデルがグラバー夫人ツルかどうかなどで話題になる。このオペラは、米国の弁護士ジョン・ルーサー・ロングが小説に書いたのを、イタリアのペラスコが劇に脚色、さらにプッチーニが歌劇として発表した作品だ。郷土史家らの論争が新聞などで展開されたため、グラバー園は蝶々夫人ゆかりの地のようになってしまった。ヒロイン蝶々夫人を何度も演じ、この悲恋物語を世界的に有名にしたオペラ歌手、三浦環の記念像が建てられている。港の見える丘で帰らぬ人を待っていた蝶々夫人。その指し示す指先には、愛するピンカートンへの一途なまでの思いが見て取れる。 この異国情緒溢れる長崎ならではのストーリーは我々日本人にも受け入れられる気質を感じさせてくれる。

ようやくプッチーニ(G. Puccini 1858-1924)に出会えた。グラバー園を訪れたのは、このプッチーニ像に出会うためだったと言っても過言でない。遥か遠くに向けて凝らした視線に筆者も合わせてみた。20世紀初頭のイタリアから東洋を望み、エキゾシズムを作風に取り入れた作品に我々日本人はどんな感性で接すれば良いのだろう。

筆者が考えるに、西洋音楽家の視点から見た日本文化といった第三者的な鑑賞で良いのではないだろうか。「それが日本的であるかどうか」よりも先に「音楽的に価値があるかどうか」という観点で観た時、やはりトランスクライブを施して吹奏楽に携わる人達にも演奏して欲しいと思ったのだ。西洋から観た日本女性の悲恋、日本人が演奏して何ら差し支えはあるまい。

かねてから書きたいと思いながら、脇に追いやられていたオペラ・スコアを長崎から帰京後に取り出し、一目散に書き上げた。それが下の譜面(注)である。

長崎の歴史に見る華やかであり、悲しくもある表情に、この作品が重なって、筆者の創作意欲は一際輝きを増したのだろう。

異なる文化と文化が激しく擦れ合って混じり合い、新たな価値観が創造された証をこの旅で見た。

(注)歌劇「蝶々夫人」より(G.プッチーニ/編曲 瀬 浩明)参考MIDIデータ43k 非圧縮.mid161k スコア177k

 歌劇「蝶々夫人」 ―2幕の日本の悲劇― ストーリー

 米軍中尉F.B.ピンカートンは、結婚仲介人ゴローから「蝶々さん」を紹介され、丘の上に家を用意し、結婚する。しかし、いつでも自由に結婚の契約を解除できるという条件付の結婚であった。蝶々さんは愛するピンカートンのため改宗してまで彼に尽くす。

 ピンカートンは日本での任務を終え、蝶々さんに来年戻ると言い残して祖国アメリカに帰る。しかし三年経っても彼は戻らない。その間に子供が生まれた。周囲の人々は彼の愛を疑うが、蝶々さん一人は彼を信じ、ひたすら待ち続ける。結婚仲介人のゴローは、ヤマドリ公と結婚させようとするが、無駄に終わる。

 そんなある日、ピンカートンの乗る軍艦リンカーン号が入港する。蝶々さんは自分の心が通じたのだと喜び、部屋を花いっぱいにし、着替え、化粧をして一晩中彼の帰りを待つ。

 領事シャープレス、ピンカートン、そして妻のケイトが家に到着する。ピンカートンは花で飾られた部屋を見ると自責の念に駆られてその場を逃げ出す。蝶々はピンカートン、ケイト夫妻に子供を預けることを決める。後でピンカートンが子供を引き取りに行くと、蝶々さんは短刀で自害した直後だった。

『ある晴れた日に』

米国軍中尉ピンカートンが祖国に戻ってから三年。長崎の丘の上にある愛の家で、蝶々さんは彼を待ち続ける。小間使いのスズキはピンカートンはもう戻らないのではないかと思っている。そんな彼女に、蝶々さんは言う。

 ある晴れた日に、海の彼方から白い船がやってくるの。
 船を降りる人々の群れの中から、あのひとが丘に向かってやってくるわ。
 でも、わたしは、迎えにでないで隠れて待っているの。
 すると、あのひとは少し心配になって名前を呼んでわたしを探すの。
 きっとこの通りになるのよ。
 (蝶々さんが回想する「船の礼砲」が15小節目に鳴り響く。)

[コラムPause] プッチーニ

甘くて美味しいミニ南瓜の品種名。果実は200〜300g 極小型の早生種。播種後80〜90日で収穫でき、1本のツルに3〜4果連続してできる豊産。電子レンジで丸ごと3〜4分加熱するだけで食べられる。ちょうど一人一食分の大きさで、肉質は粉質で独特の甘味があり美味しい。極めて日持ちが良く、通常室内で2〜3ヶ月は保存できる。また黄色い外観や形が可愛いのでインテリア装飾としても使われている。


ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924、イタリア)

 1858年、代々ルッカの大聖堂オルガニストというプッチーニ家に生まれる。ジャコモは一家の5代目で、14歳にして教会のオルガニストとなり、宗教音楽家としての道を歩もうとしていた。18歳の時にピサで『アイーダ』を観たことによって彼の人生は変ってしまった。ミラノ音楽院に入りオペラ作曲家を決意する。「交響的綺想曲」を25歳で発表し音楽院を卒業。それをきっかけに彼は注目を浴びる。音楽出版社ソンツォーニョ主催の一幕物オペラにプッチーニは「妖精ヴィッリ」の台本に曲を作り応募する。入賞は逃したが、審査員の一人であったボーイトの目に留まり1884年に初演され大成功を納める。

 その後、マスネ「マノン」の成功の影響から、同じ題材をオペラにした「マノン・レスコー」(1893)、『ラ・ボエーム』(1896)、「トスカ」(1900)など次々に傑作生み出した。

 次に作曲をした「蝶々夫人」のスカラ座での初演は大失敗に終わった。一日で上演を打ち切り3ヵ月後、多くの部分を書き換えて再演し大好評を得た。

 その後は裁判事で親戚内の問題があり創作にも影響したが、ようやくアメリカを題材にした「西部の娘」を作曲し、1910年ニューヨークのメトロポリタン歌劇場にて大成功を納める。その他、新しい試みとして『外套」「ジャニ・スキッキ」「修道女アンジェリーカ」を三部作として同時に初演した。

最後の作品となった中国を舞台にした「トゥーランドット」は「リューの死」まで作曲していたが、喉頭癌で65歳の生涯を閉じた。遺作となった「トゥーランドット」はプッチーニのスケッチをもとにアルファーノのてによって最後の二重唱が作曲され1926年トスカニーニによって初演された。


プッチーニの作品

オペラ

■ヴィッリ(Le Villi)1幕版 1884年5月31日ミラノ ヴェルメ劇場・2幕版 1884年12月26日トリノ

■エドガー(Edger)4幕版 1889年4月21日ミラノ スカラ座・3幕版 1892年2月28日フェラーラ

■マノン レスコー(全4幕)(Manon Lescaut)1893年2月1日トリノ

■ボエーム(全4幕)(La Boheme)1896年2月1日

■トスカ(全3幕)(Tosca)1900年1月14日ローマ コスタンチ劇場

■蝶々夫人(Madame Butterfly)2幕版 1904年2月17日ミラノ スカラ座・3幕版 1904年5月28日ブレーシャ

■西部の娘(La Fanciulla del West)1910年12月10日ニューヨーク メトロポリタン

■つばめ(La Rondine)1917年3月27日モンテカルロ

 

■3部作(それぞれは独立したオペラであるが、一緒に演奏されることが多い)

外套(Il Tabarro)

修道女アンジェリカ(Suor Angelica)

ジャンニ スキッキ(Gianni Schicchi)

1918年12月14日ニューヨーク メトロポリタン

 

■トゥーランドット(Turandot)1926年4月25日ミラノ スカラ座


教会音楽Salve Regina fuer Soprano and Harmonium

■モテットとクレドMotetto und Credo 1878年ルッカ

■ミサ曲 テナー、バリトン、バスのソロと、4部合唱、オーケストラ

1880年エドバRequiem fuer Soprano Tenor Bass Harmonium oder Organ

合唱曲

■I Figli d'Italia Bella, 1877年ルッカ

■Inno a Diana (F. Salvatori)合唱とピアノ(1897)

■Cantata a Giove (1897)

■Avanli, Urania (R.Fuccini)合唱とピアノ(1899)

■Inno di Roma (Bearb. Innoa Diana; 1919)

オーケストラ曲

■交響的前奏曲Preludio Sinfonico 1876年 Lucca

■交響的奇想曲Capriccio Sinfonico 1883年6月14日ミラノ

■行進曲≪電気ショック≫Scozza elettrice, Marsch 1896年

室内楽

■K1.-Trio, Fragment; Scherzo fuer StrQu.

■Str Qu. D (1880-1883)

■Fltlgen (1882/83)

■3 Menuette (1890)

■Crisantemi (1890)

歌曲

■Melanconia (A. Ghislanzoni; 1881)

■Allor ch'io saro morto (ders. ; 1881)

■Noi legger (ders.;1882)

■Spirto gentil (ders.; 1882)

■Romanza (C. Romano;1883)

■Storiella d'amore (G. Puccini; 1883)

■Solfeggi (1888)

■Sole e amore (a. Puccini; 1888)

■E l'uccellino (R.Fuccini; 1-899)

■Morire (G. Adami; 1917)

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