ルソーJean-Jacques
Rousseau(1712〜1778)フランスの思想家。スイスのジュネーブ共和国に時計師の子として生まれる。 -中略- 彼の著した教養小説風の私教育論「エミール」で、モンテーニュやロックの教育論を発展させ近代的人間教育の理念を確立した。事実「不確実な未来のために、現在を犠牲にするあの残酷な教育をどう考えたらいいのか」という叫びは今日なおその意義を失わない。[相賀
徹夫 万有百科事典 4哲学・宗教 小学館 1974 : 619]
『エミール』は、健康で自由で共和国にふさわしい市民を形成するための教育論であるが、同時にその第四編「サボアの助任司祭の信仰告白」は『社会契約論』末尾の「市民的宗教」の章と合わせて、ルソーの宗教論を構成する。
ジャン・ジャック・ルソーが預かって教育をした「エミール」という一人の子どもを巡る教育の方法について論じた書物であり、それは裕福な家の母親に対するアドヴァイス的内容である。従ってパブリック・エデュケーション(学校教育)ではなくプライベート・エデュケーション(家庭内教育)としての内容である。
同じ年に書かれた「民約論」との深い関わりがある。
「ロック」以後初めてといっていい教育書で、教育研究が社会公共にとって、もっとも役に立つものであると論じている。また民主政治が正しい意志をもって行われるためには主権者である国民全てが普遍意志をもって真理を見抜く力を備えられるよう教育されなければならないといった「民約論」の精神を映し出すものとなっている。
教育研究の根本はまず「子どもの研究」だと述べ、これが基本的な研究課題であるとした点は先駆性がある。
彼は本書は印象からくる誤解を防ぐため、「教育の本質論や原理論について述べたもの」
だとしている。
自然の教育を
有名な始まりは「造物主の手を出るときは、あらゆるものはみな善きものであるが、人間の手に渡るとその全てが悪しきものになってしまう。-中略-自分の庭先の盆栽か何かのように気に入るようにひんまげるのである」という文章である。要するに自然のやり方に従い、自然をゆがめるな、といった主旨に添った教育論である。
彼は発達を3つの段階に分けて論じている。人が自分のために行動するときに判断・選択する基準は第1に快・不快(快楽主義)、第2に便・不便(実利主義)、第3に幸・不幸や善悪といった理性的・理念的(理想主義)なものになるという考えである。
「エミール」で目指す教育理想は、個人主義であってしかも愛国主義、自由であって全体に生きる人だといえる。
子どもを人間として立派で、どんな身分・職業になってもやってゆけるように、一般性があって苦難を乗り越える力を持った人に育てなければならないと、彼は述べている。
聴覚教育
聴覚のところでは最後に音楽教育について述べられているが、ここでも子どもの音楽教育は単純平明な、演劇的でない歌曲を教えるべきであること、読譜指導を急ぐべきでないこと、したがって初めは耳によって曲をきくことを中心とすべきことなどが説かれている。が、ここでいま一つ注目に価するのは彼が作曲指導の必要性を説いていることである。音楽教育は他人の作った曲を歌うだけでなく、自分で作曲することを併せ行なうことによってはじめて十分なものになる。小さいうちから、簡単な、調った文句を作り、それを曲にする経験をさせよというのだ。このあたりにも、単に外から与えられる既存のものを受容させるだげでなく、常に発動的であり、自已表現的であり、探求的であるような。経験によって、そのような子どもを育てようとした彼の一貫した教育観があらわれております。この点でも彼はまた、音楽教育史上の先覚者であったと言っていいようだ。[梅根
悟 ルソー「エミール入門」 1984 : 92]
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ルソーが唱えた理想の教育とは教養でも思想でもない、純粋に「生きる」という点に絞った教育である。それは日本での戦後教育の行き詰まりから今、最も注目されている「生きる力」だとも受け取れる。人が人として共に生きるといった今日的な道徳教育の側面や、知識偏重型教育から課題解決型学習へと切り替えていく必要を迫られた我が国の教育実状の中では、一際光り輝いたメッセージとして我々の手元に届けられる。
幾分、現代社会では当て嵌まりにくい部分はあろうが、我々教育者が日々陥りがちな大人の視線からのみの関わりに替わって、多面的視野で子どもの視線に合わせた教育実践のために必要とされる「子ども理解」をも時代を越えて指摘している。これらの点に今改めて注目し、新しく柔軟な教育を推し進め研究実践を続けたい。