我が国の音楽にどう取り組むのか
―実現可能な導入を探る―

1.はじめに


 本稿をまとめるにあたって、後期の講義やフィールドワークを通して学べたことの補足研究としたい。また、不十分ながら現在勤務する小学校の状況を考え、我が国の音楽をどのような形で導入していけるかについて、現時点の構想を導き出したい。

2.我が国の音楽とは


 我が国の音楽といっても、我が国古来の音楽文化そのものと言える曲や、明治以後に創作された西洋音楽をベースとした我が国独自の唱歌などの二つに分けて考えられる。本稿では、筆者が現在勤務する小学校で鑑賞及び表現活動に取り上げたい分野について前者の中からいくつかピックアップした。


[歌舞伎]
 歌舞伎は近世初頭に阿国の歌舞伎踊りとして始まった。
 「歌舞伎」は後世の当て字で、本来は「傾く」(かたぶく)という当時の日常用語が使われた。街中を目立つ風体で闊歩する(ツッパリ)の若者をかぶき者(傾き者)と呼んだが、その風俗や言動を舞踊劇に面白おかしく取り込んでいったのが「かぶき踊り」だった。
 寸劇がやがて本格的ストーリー(狂言)となり、立役(たてやく)・女方(おんながた)・敵役(かたきやく)などの役柄・配役(キャスト)が整備されて、多幕物のつづき狂言に発展してく。
 初期の歌舞伎が民衆に深く浸透するにつれ、幕府は風俗紊乱を理由にしばしば干渉。それにつれて歌舞伎を演ずるスターたちも〈遊女〉〈若衆〉〈野郎〉と替わった。野郎歌舞伎となってはじめて、男優がすべての役柄を演ずる今日の舞台スタイルが確立する。
近世に入り鎖国し、海外からの影響が少なかった約200年の間に、歌舞伎は上方や江戸の都市文化を色濃く反映し、対話劇・浄瑠璃劇・舞踊劇を融合した日本独自の総合演劇を作り上げていく。
[元禄(1688〜1704)]
消費経済の主役となった町民の文化を背景に、歌舞伎は上方と江戸にそれぞれ独自の狂言を作りあげた。上方の歌舞伎では富豪の若旦那が零落し遊女と濡れ場を演ずる「和事」狂言を生み、一方江戸では全国から集まった武家の子弟や農村からの移住者を背景に御霊信仰(不動明信仰)のシンボル曽我五郎などが活躍する「荒事」狂言が生れた。第一次完成を見たこの時代に、猿若(中村勘三郎)や初代市川団十郎が活躍し、近松門左衛門などの優れた作家が輩出した。
[天明(1781〜1789)]
元禄が終わると歌舞伎の人気は低迷する。対照的に人形浄瑠璃は全盛を迎える。役者の芸にたよる歌舞伎はアドリブも多く、ストーリーの貧弱さが観客に飽きられたのだ。これにひきかえ作者が筆の力で脚本を書く浄瑠璃は、筋立ても複雑で内容も優れ観客を楽しませた。そこで歌舞伎は人形浄瑠璃の台本をそのまま取り入た狂言を上演する。「仮名手本忠臣蔵」、「義経千本桜」などが代表的。せりふ部分を役者が、三味線にのせてかたりの部分を竹本(義太夫の太夫)が唄う。舞台は音楽的になり、演技はより舞踊的なっていく。まず上方で起こったこの動きは江戸にも入り、唄いや三味線合奏を洗練した江戸長唄も登場する。
[文化・文政(1818〜1830)]
文化の中心は上方から江戸に移り、退廃的傾向が強まった時代。ここで登場したのが鶴屋南北(1755〜1839)。「東海道四谷怪談」が代表作で知られるが、庶民の恋愛の感情や義理をリアルに描く「世話物」(せわもの)といわれる新しい作品群で人気を博した。芝居に底辺の庶民の生活や、尖がった江戸言葉(『べらんめえ調』など)をおり込んだことも特徴。
[幕末]
 ペリー提督の来航などで世の中が騒がしくなった時代。歌舞伎にもう一人の天才作家が登場した。河竹黙阿弥である。『月は朧(おぼろ)に白魚の_』(「三人吉三」)、『知らざあ言って聞かせあしょう_』(「弁天小僧」)、誰もが知っている名台詞の作家。これらの作品は町の小悪党を主人公にしたので「白浪物」(しらなみ:泥棒物)ともいわれ、名優四世市川小団治と組んで大成功した。
◆「勧進帳」
 市川団十郎の家の芸『歌舞伎十八番』のなかで最もポピュラーな作品。七代目市川団十郎が能の「安宅」(あたか)を歌舞伎の芝居に移したもの。 天保11年(1840)に初演された。(*長唄<勧進帳>参照) 当時庶民が見ることも演ずることもできなかった能の演目を、カリスマ役者の団十郎が歌舞伎で演じたことでセンセーショナルな話題となった。 富樫と弁慶の緊迫した問答が、近代歌舞伎の名演とうたわれた十五代目市村羽左衛門(富樫)と七代目松本幸四郎(弁慶)の配役できける。
◆「白浪五人男」
 オリジナルタイトルは「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ)。河竹黙阿弥が市村座に書下ろした五幕の世話物。文久2年(1862)に初演された。日本駄右衛門を頭目とする五人の盗賊の物語で、四幕目の「稲瀬川勢揃いの場」が特に有名で、今日でも独立して上演される。五人の男女の盗賊が、派手な衣装で揃いの傘をさして舞台に並び、七五調で名乗り合う場面。黙阿弥の名台詞が楽しめる。
◆「鳥辺山心中」
 曲の筋は恐らく遊女であったと思われるお染という十七歳の女性と、半九郎という二十一歳の若者とが鳥辺山で心中するための道行を唄ったもの。歌詞の作者は近松門左衛門、作曲は湖出金四郎、岡崎検校の改調だと伝える。宝永三年(1706)、大阪の岩井座で初演された。現在歌舞伎で上演されているものは、「半七捕物帳」で有名な岡本綺堂(1872〜1939)が大正4年(1915)に書いた新歌舞伎の傑作。若い芸者と侍の悲劇は現代風の台詞劇として描かれているが、最後はオリジナル狂言のイメージに当てはまるよう、死出の道に旅立つことで終わる。
◆「恋飛脚大和往来/封印切の場」
 原作は近松門左衛門の世話物浄瑠璃「冥途の飛脚」。寛政7年(1796)歌舞伎に移されたとき「恋飛脚大和往来」と改題された。物語は恋に落ちた若旦那と遊女が公金横領の罪でお尋ね者になるという悲劇。(*義太夫「傾城恋飛脚」参照)上方歌舞伎独特の和事の流れをくむ二幕の世話物。様々な技巧を凝らした「封印切」、「羽織落し」、「へど大尽」、「めんない千鳥」の舞台は今でも上演頻度が高い。

[義太夫]
 語り物としては最も複雑な内容と形式とを備えた音楽である。浄瑠璃の一派には違いないが、今日、浄瑠璃と言えば義太夫を差す場合が多い。殊に関西では浄瑠璃と義太夫は同義である。
◆「蘆屋道満大内鑑/狐別れの段」
 「蘆屋道満大内鑑」は竹田出雲作の五段物の浄瑠璃で、平安時代に題材をとっているので王代物と言われる。享保十九年(一七三四)竹本座で初演された。和泉国の信田森の白狐が安倍保名と契って、秀れた陰陽師安倍晴明を生んだという、いわゆる信田妻の伝説を基にして作った浄瑠璃である。
 荒筋−天文博士加茂保憲の二人の高弟安倍保名と蘆屋道満は、保憲の没後どちらが後継者になるかを争うこととなった。ところが陰陽道の奥義書が紛失したため、保名の愛人であった保憲の養女榊の前に疑いがかかり、酒見の前は自殺してしまう。恋人の保名はそのために狂気となり信田の森をさ迷ううち、榊の前に生き写しの葛の葉に出逢う。保名の狂気もそれによって回復し、保名と葛の葉は夫婦となり、今は二人の間男子まで儲けて平和な生活を送っている。ところが葛の葉は本物の葛の葉ではなく、信田森の劫を経た白狐であった。この狐は天下を狙う悪人左大将元方の奸計の犠牲となって、狩り出されて殺されるところを保名に救われたことがあるので、その恩返しのために狂気の保名を救ったのである。さて、二人の間に生まれた道時が五歳になった時、本物の葛の葉がこの家を訪ねてくる。そこで狐の葛の葉は良人と愛児を残して、泣く泣く信田の森へ帰ってゆく。葛の葉狐が良人と愛児を残して別れてゆく段が「狐別れの段」である。
なおこの童子は、それまで元方の悪計に荷担しているようによそおっていた蘆屋道満に見出されて、晴明と名付けられ取り立てられ出世することになる。
◆「傾城恋飛脚/新口村の段」
 この浄瑠璃の原作は、近松門左衛門の世話物浄瑠璃「冥途の飛脚」で、正徳元年(一七一一)三月竹本座で初演された。それを菅専助と若竹笛躬が安永二年(一七七三)に改作したものが、「傾城恋飛脚」である。
 荒筋−大阪淡路町の飛脚屋亀屋の養子忠兵衛が新町の槌屋の遊女梅川に馴染んだ揚句、金に窮して友達の丹波屋八右衛門の為替五十両を費い込んだ。これについて一応諒解を得たはずなのに、新町の揚屋で八右衛門が大勢の前でこの件を言い触らし、悪口するのを聞いて、カッとなった忠兵衛は出入の屋敷へ持参するはずの三百両の封印を切って八右衛門に叩きつけ、梅川を身請けして駆け落ちをする二人は手にてを取って廓を出て奈良の旅篭や三輪の茶屋と二十日ばかり諸所をうろついて遂に郷里の新口村に入りこみ、旧知の農夫忠三郎の家に忍び入って、実父の孫右衛門と対面する。
◆「傾城倭荘子/蝶の道行」
 この浄瑠璃は並木五瓶の歌舞伎狂言「けいせい倭荘子」を浄瑠璃に移したものと思われる。五瓶の原作は天明四年(一七八四)正月、大阪中座で初演された。その時道行を語ったのは宮薗文字太夫らであったらしい。その後、人形浄瑠璃に移されて、文政元年(一八一八)十二月、大阪の稲荷境内で上演された。これが人形浄瑠璃としては初演ではないかと思われる。その時の道行の名題を「二世の緑花の台」と言った。これが「蝶の道行」である。
 北畠家の家臣、近藤軍次瓶衛の一子助国と、同じ家中の星野勘左衛門の妹小巻とは深い恋仲であったが、両家がお家騒動に巻き込まれ、二人の恋人は若殿夫婦の身替りとなって首を討たれた。すると並べてある二人の首から、それぞれ雌蝶・雄蝶が飛び立ってもつれ合いつつ花園の上を飛んでゆく。二つの蝶は恋人たちの化身であった。蝶たちはやがて助国・小巻の姿となり、思いのたけを語り合う。だが、それも間もなく、二人を襲う修羅道の責苦の中で、二人の姿は消えてゆく。

[箏曲]
 安土桃山時代に久留米の善導寺の僧賢順が、九州に残っていた古筝曲を集めて整理し、これらを基調として組歌(筑紫詠)10曲を作り、「筑紫流」を創始した。この筑紫流筝曲は徐々に廃れ大正時代以後は世人から忘れられた。
 賢順の門弟法水から江戸で筑紫流を教えられた、後の山住勾当(勾当は当道座に属した盲僧の官名で、検校・別当・勾当・座頭の順位である。)は、筑紫流が一般の人々の耳に馴染み難いことを思い、筑紫流を改作し近代化して新らしい筝曲を創始した。この人は寛永16年(1639年)に上永検校となり、後に改名して八橋検校となった人である。近代筝曲の開祖と言われる人である。
 八橋検校の門弟北島検校に師事した生田検校は、元禄8年(1695年)に生田流を開いた。生田検校は八橋検校が行なった筝曲の近代化を一層推進させた人である。その顕著なものは、当時世間で大いに流行していた三味線と提携したことであった。ここにおいて地唄と筝曲とが融合することになった。
生田検校と同門であった住山検校は住山流をおこし、継山検校は住山流から出て継山流をおこした。また、八橋検校の伝統を守ろうとする新八橋流などもあるが、これらはいずれも広義の生田流に含まれる。
 生田流筝曲を江戸に広める目的で江戸へ下った長谷富検校の門人山田斗養一つまり山田検校の山田流筝曲は、生田流と十分に対抗できる勢力となって今日に至っている。
◆「五段砧」
「五段砧」(ごだんぎぬた)は19世紀半ばに光崎検校が作ったと伝えられる。「砧」は昔各家庭で夜に布を叩いてつやを出す仕事を指す言葉で、その音は秋の夜などは遠くまで響き、いかにも秋らしい趣を表すものとして様々に音楽化されている。光崎検校は、筝曲や三味線曲で取り上げられてきた有名な旋律に手を加え、これに高音部の替手を付け、二重奏曲として編曲したもの。「砧物」の多くは4段構成なのに対して、この曲は5段構成なので「5段砧」が曲名となった。
◆「千鳥の曲」
 名古屋の吉沢検校が安政(1854−1859)の頃、純筝曲として作曲したもので、歌詞には古今集と金葉集とから千鳥に関する和歌を一首ずつ選んで作り上げた。これは組歌風に古今組と名づけられた五曲の中の一つである。五曲というのは、(1)千鳥の曲(2)春の曲(3)夏の曲(4)秋の曲(5)冬の曲の五曲である。この中で「千鳥の曲」だけが前唄(古今集)と後唄(金葉集)との間に手事を挿入してある。手事とは楽器の技巧を重視した間奏的な部分を言う。
三味線を加えず、雅楽からヒントを得て工夫した「古今調子」という調絃法によって作られている高雅な趣きの曲である。「六段」と並ぶ名高い曲でもある。
◆「松風」
 四国宇和島藩伊達家の息女が、島原藩の松平家に嫁して江戸で数ヶ月を過したが、夫が参勤交代で帰国したまま病没してしまったので、実家の両親が娘を慰めるために、立派な筝を作って与えた。その筝の名にちなんだ歌詞を作り、同家に出入りしていた三世山木検校と初世中能島検校とが共同で作曲した作品である。山田流独特の唄物で、手事もあって、山田流で人気のある曲。なお、同名の曲が生田流にもあるが、同名異曲である。
◆「竹生島」
 千代田検校の作曲。江戸時代末期に作品。能の「竹生島(ちくぶじま)」を山田流筝曲に移したもの。シテ(漁夫の翁)の登場以下を凝縮し、辞句を改めたもの。能の天女ノ舞を『楽』(笛が入ったリズム隊)で、竜神の出を『合の手』で表現する。筝は雲井調子(筝の調弦法)三味線は三下りで演奏される。
曲の内容は能に準じており、後醍醐天皇の臣下が漁夫の翁に誘われて竹生島に渡り、女人禁制の島に海女がいるのを不思議がると、海女は弁財天となり翁も竜神となって現れ、舞い踊るというもの。
[箏について]
◆構造
 胴は桐材。頭部と尾部には堅い唐木を使う。足ともいわれる竜手の部分も唐木で作る。また弦の端にかける駒(竜角・雲角)も唐木を使い、その上に象牙の細長い筋をつける。
 全長は、約1.9m(六尺四寸)が標準ですが、ふつうそれより短いものが使用され、1.5mから1.8m程度のものが多く使用される。
 胴の幅は頭部が約25cm、尾部で約23.5cmほどで、胴の厚さは3cmから最近では4cmある。
 「弦」は絹糸で同じ長さの弦を十三本、平行に張ってある。各弦には琴柱と呼ばれる駒により、音の高さをその置き場所で調律する。
琴柱の材質は以前、紫檀が多く用いれられたが最近は象牙が多く、その高さは4.5cm〜5cmである。
◆奏法
 筝は演奏者から見て頭部を右側におき、正座する。(雅楽では安座)右手の親指、人差し指、中指に爪をはめ、弦をはじく。
 左手は琴柱の左側の部分を押して弦の音を調節(押し手の奏法)したり、弦の余韻などをかもし出す。なお、爪の形は生田流が角爪で、山田流は先の丸い丸爪になっている。

[民謡]
◆「佐渡おけさ」

 新潟県佐渡島の代表的民謡。毎年7月25日〜27日、佐渡郡相川町で「鉱山祭り」にパレード用の唄としてうたい踊られる。原曲は九州の『ハイヤ節』で、船乗り達により佐渡の港町小木の花柳界に伝えられ、これを相川金山の鉱夫たちが酒盛りや仕事のさいにうたうようになった。明治29年(1896)相川金山が国から払い下げられるのを記念して始まった「鉱山祭り」で『選鉱場踊り』として草の笠をかぶり唄いながらパレードして廻ったのがはじまり。その後名手といわれる村田文蔵が節回しを統一、大正15年(1926)にレコード化するさいに現在の曲名となった。
◆「 越中おわら節」
 富山県の民謡。婦負郡八尾長が本場で、9月1日〜3日の『風の盆』で唄い踊られる。原曲は九州地方の舟歌『平戸節』が八尾に運ばれ変化したという説がある。「おわら」は作業唄で、昔養蚕農家の八尾乙女達が桑を摘み繭から糸を繰りながら口ずさんだといわれ、すでに元禄年間(1688〜1704)には町内をねり回る行事のうたとして八尾に定着していたらしい。三味線、胡弓、太鼓の伴奏にのり、唄い手一人、囃子(はやし)手一人の形でうたわれる。歌詞は七・七・七・五の26文字が基本だか、『五文字冠り』という、上の句に5文字をかぶせ31文字にしてうたうのが「おわら」の特徴である。古謡として歌い継がれて来たものなど百首以上の歌詞でうたわれ、現在でも新作が毎年作られている。踊りには男踊りと女踊りがあり、男は法被(はっぴ)姿、女は振袖に編笠で各町内ごとに連をなして、八尾の町を流していく。
◆「津軽じょんがら節」
 青森県津軽地方の民謡。津軽の芸人たちが門付け(かどづけ)や巡業先の舞台でうたってきたもの。津軽地方の方言で『じょんがら語る』とは多弁であることや無駄話をすることを意味する。歌の合間に滑稽な文句や開放的な性風俗をうたいこんだ方言の囃子ことばがリズミカルに織り込まれ、長編の口説(くどき)節の形。うたの由来は慶長年間(1596〜1615)に越後(新潟県)で起きた耕作権争い。信濃川の中州を巡っての争いで旧領主の菩提寺の住職が、土地争いに抗議して川に身を投げた。その故事を村民がうたったといわれる「新保広大寺」が越後ごぜによって諸国にひろまってとされるが、それが津軽に伝えられたという。明治中頃までに、三味線も唄も技巧が加えられしだいに今日の形となった。津軽三味線の『じょんがら曲弾(きょくびき)』は歌の前奏が独立・発展したもの。
◆「江差追分」
 北海道の代表的民謡。源流となったのは信州の『馬子唄』で、追分宿の飯盛り女たちがこれに三味線をつけてうたった『追分節』が江戸時代後期に新潟の花柳界に伝わり、天保年間(1830〜1844)に北前船で日本海を渡り北海道に入ったという。江差各地で異なった唄い方がされていたが、明治末期に今日のものに統一された。
◆「安来節」
 島根県安来市の民謡。源流は島根県下でうたわれた『さんこ節』で、それをもとに長編の口説(くどき)節化して日本海沿岸各地でうたわれた『出雲節(舟方節)』から派生したとされる。大正時代にレコード化されるとともに泥鰌掬いの踊り、銭太鼓の曲打ちのスタイルがうけ、全国に広まった。
◆「黒田節」
 福岡県の民謡。かつては『筑前今様』とよばれ、現在の福岡県を中心に黒田藩の武士によってうたわれていた。雅楽『越天楽』の旋律に様々な歌詞をはめこんで歌う『越天楽今様』がもとの形。日本中で愛唱されるこの曲の歌詞は福島正則が豊臣秀吉から贈られた名槍『日本号』を黒田藩士母里太兵衛が大盃の酒を飲み干して持ち帰ったという勇壮な故事もとにつくられたもの。昭和初期ラジオで放送されると日本全国に広まった。

[三味線について]
 三味線は室町時代に琉球から伝来した三線(蛇皮線)を改造して創られた。
 古代エジプトではネフェル又はノフルと呼ばれ、胴に皮を張り、棹に三本の弦を張った楽器があった。その後ペルシャ(イラン)にあるセタールという楽器が出来た。イラン語で「セ」は「三」、「タール」は「弦」という意味であり、「三弦」ということになる。そして中国「元」の時代に蛇皮を張った三弦が出来、1390年頃この中国の三弦は琉球に入った。当時、中国は「明」の時代で、中国の江南の人々が渡った際に伝わったのであろう。
 そしてその百年後、琉球に音楽の天才、「赤犬子」が楽器の改良と多くの名曲を創り、琉球三弦の元を確立した。そして永禄5年(1562)前後、貿易船によって伝わったとみられ、当時の日本では、大阪・堺、九州・博多の二つの貿易港に入った。九州では沙弥仙、須弥山(それぞれしゃみせんと呼んだ)が盲僧によって演奏されたという。
 一方、堺では手に入りにくい蛇皮の代りに犬や猫の皮を張り、三十年の研究期間を経て、安土時代の初めには現在の三味線の基礎を確立した。
 今日に残る最古の三味線は銘が「淀」と呼ばれ慶長二年豊臣秀吉の命によって京都の神田治光が作った。江戸時代には名匠、石村近江の名作もあり、三味線は日本の弦楽器において最高の位置をしめるようになった。
◆構造
 三味線は「棹」と「胴」の部分からなり、「棹」は上から海老尾(転軫)、棹、それに棹の下は棒状になっていて、胴の内部に挿入した部分の中子(中木)、胴の下に突き出ている部分の中子先からなる。材質は、紅木(こうき)が高級とされ、次に紫檀、樫や桑の木を使用される。棹の長さは二尺六分(62.5cm)で、太さはいろいろあり細棹、中棹、太棹がある。
棹の種類面の幅・上部
 棹の種類 面の幅・上部 下部    重ね・上部  下部
 細棹 長唄 2.3cm    2.5cm  2.5cm    2.6cm
 中棹    常磐津・清元・新内は細棹と太棹の中間の太さ
 太棹 義太夫 3.3cm    4.0cm  4.3cm    4.6cm
 棹は持ち歩きに便利なように、「継ぎ棹」といって、「二つ折」や「三つ折があり、5箇所の継ぎ目のある「六つ折」など珍しい棹もある。なお継ぎ目の無い棹は、「延べ棹」とよばれる。
 「胴」は四面の枠が外側に凸形の四角形の箱で、材質は花梨、桑、欅の木作る。胴の枠の上には「胴掛」という蓋状のものを付け、演奏の際に右手の腕を乗せる。「皮」は胴の両面に張り、猫や犬の皮が使用されるが、最近では合成のビニールも使用される。「弦」は、糸とよばれ絹糸を撚り合せて作り、一の糸は太く、二の糸はこれに次ぎ、三の糸は最も細い。糸は蚕からとる絹糸が本来で、滋賀県の伊香具産が有名で、一匹の蚕から出る七本の極細の糸を撚り合せたものを四十本撚り合せ三の糸をつくる。二の糸は三の糸を二つ合わせて撚り、作る。一の糸は三の糸を三本撚り合わせて作る。最近ではナイロン製の糸もある。
 「駒」は糸の振動を胴の皮に伝え、三味線の音質を決める大事な部分で、材 質は、象牙、水牛角、鯨の骨、竹、紫檀、黒檀などがある。義太夫や地唄は水牛が多く、長唄では象牙が使用される。余談ですが、「駒」のなかに「忍び駒」というものがあり、竹で作られて音量をおさえる目的のためのものがあります。 この「忍び駒」は江戸時代中期からあり、当時は、皇室、徳川将軍、三卿(尾張・水戸・紀州)、三家(一ツ橋・田安・清水)の凶事に際しては三ヶ月から一年間、鳴物が禁止されるため、その期間に内密で三味線を弾くのに用いたという。
 最後に「撥」が使用されます。形は上が少し開いた扇のようで「ひらき」といい、下の部分を「才尻」といい、その中間の握り持つ部分を「手の内」という。材質は地唄が水牛角を使用し、長唄は象牙、義太夫は両方使用される。
◆奏法
 三味線の糸の調律には「本調子」、「二上り」、「三下り」の三種類がよく使用され、次いで「一下り」、「六下り」などがある。演奏者は正座し、胴を右膝にのせ、棹を左手で握り人差し指、中指、薬指の主に爪で勘所(ポジション)を押さえ、右手で持った撥を糸にあてて弾く。撥は皮にあてるように強く弾いたり叩かずに弾く、または撥の裏角ですくう演奏法がある。左手も「はじき」、「こき」「すりあげ」「すりおろし」などがあり、三味線の味がでる。このほかに「小唄」のように撥は持たず、右手の人差し指で「爪弾き」する奏法もある。

3.小学校学習指導要領(音楽)新旧対照


 文部省では、平成10年12月14日に幼稚園教育要領、小学校及び中学校学習指導要領を、平成11年3月29日に高等学校学習指導要領、盲学校、聾学校及び養護学校幼稚部教育要領、小学部・中学部学習指導要領、高等部学習指導要領を告示した。この中から平成元年告示の旧指導要領(小学校)と平成11年告示の新指導要領(小学校)を対比してみることにより、これまで小学校の教育現場で我が国の音楽を扱ってきたスタンスをどのように変えていけば良いかを見ていきたい。以下の部分に注目する。
第3 指導計画の作成と各学年にわたる内容の取扱い
2 第2の内容の取扱いについては,次の事項に配慮するものとする。
[新]
(1) 歌唱の指導における階名唱については,移動ド唱法を原則とすること。
(2) 和音及び和声の指導については,合唱や合奏の活動を通して和音のもつ表情を感じ取ることができるようにすること。また,長調及び短調の楽曲においては,1,4,5及び57を中心に指導すること。
(3) 各学年の「A表現」の(3)の楽器については,次のとおり取り扱うこと。
ア 各学年で取り上げる打楽器は,木琴,鉄琴,我が国や諸外国に伝わる様々な楽器を含めて,演奏の効果,学校や児童の実態を考慮して選択すること。
イ 第1学年及び第2学年で取り上げる身近な楽器は,様々な打楽器,オルガン,ハーモニカなどの中から児童の実態を考慮して選択すること。
ウ 第3学年及び第4学年で取り上げる旋律楽器は,既習の楽器を含めて,リコーダーや鍵盤楽器などの中から児童の実態を考慮して選択すること。
エ 第5学年及び第6学年で取り上げる旋律楽器は,既習の楽器を含めて,電子楽器,我が国や諸外国に伝わる楽器などの中から児童の実態に応じて選択すること。
(4) 各学年の「A表現」の(4)に示す事項については,児童が個性的な発想を生かした表現を工夫し,様々な響きを直接経験するようにすること。また,必要に応じて記譜の指導をすること。
(5) 音符,休符,記号などについては,次に示すものを,児童の学習状況を考慮して,表現及び鑑賞の活動を通して指導すること。
全音符,二分音符,四分音符,八分音符,四分休符,八分休符,ト音記号,ヘ音記号,五線と加線,縦線,終止線,シャープ,フラット,ナチュラル,フォルテ,メッゾフォルテ,ピアノ,メッゾピアノ,四分の二拍子,四分の三拍子,四分の四拍子,八分の六拍子,反復記号,クレシェンド,デクレシェンド,タイ,スラー,スタッカート,アクセント,四分音符=96(メトロノームの速度を表す記号)  
(6) 歌唱教材については,共通教材のほか,長い間親しまれてきた唱歌,それぞれの地方に伝承されているわらべうたや民謡など日本のうたを取り上げるようにすること。
[旧]
(1) 歌唱の指導における階名唱については,移動ド唱法を原則とすること。
(2) 和音及び和声の指導については,合唱や合奏の活動を通して和音のもつ表情を感じ取ることができるようにすること。また,長調及び短調の楽曲においては,1,4,5及び57を中心に指導すること。
(3) 発声の指導については,頭声的発声を中心とするが,楽曲によっては,曲想に応じた発声の仕方を工夫するようにすること。
(4) 各学年の「Α表現」の(3)の楽器については,次のとおり取り扱うこと。
ア 各学年で取り上げる打楽器は,木琴及び鉄琴を含めて,演奏の効果や児童の能力を考慮して選択すること。
イ 第1学年及び第2学年のハーモニカ並びに第2学年のオルガンは,学校の実情に応じて,他の同種の楽器に代替することができること。
ウ 第5学年及び第6学年で取り上げる旋律楽器は,既習の楽器を含めて,管楽器,弦楽器,打楽器,電子楽器,和楽器及び諸外国の民族楽器などの中から学校の実情に応じて選択すること。
(5) 「Α表現」の(4)に示す事項については,児童の個性的な発想を生かした表現をさせ,様々な響きを直接経験するようにすること。また,必要に応じて記譜の指導をすること。
(6) 音符,休符及び記号などの指導については,取り上げる教材などとの関連上必要な場合には,配当学年を変更して取り扱うことができること。
(7) 歌唱教材を共通教材の楽曲の中から選択する場合には,わらべうたや日本古謡を含めるようにすること。また,それらの教材と関連して,それぞれの地方に伝承されているわらべうたなどを適宜取り上げるようにすること。
(8) 第3学年以降の「Β鑑賞」の(1)のエの楽器については,次の中から適切なものを選択すること。
ア 第3学年及び第4学年については,弦楽器,木管楽器,金管楽器,打楽器及び鍵盤楽器。
イ 第5学年及び第6学年については,アの楽器,電子楽器及び和楽器。

 このように、平成11年に告示された新学習指導要領の中から、日本のよき音楽文化を世代を超えて歌い継ぐようにするという視点、また地域の特性を生かした特色ある学校教育を進めるという視点からも、唱歌、わらべうた、民謡などの日本のうたを、共通教材以外にも歌唱教材として取り上げることは大切になろう。
人々の生活や心情と深くかかわりながら,長い間親しまれてきた唱歌、すなわち文部省唱歌や童謡などには、児童が豊かな音楽表現を楽しむことのできる歌が数多くある。我が国の音楽文化そのものと言える曲や、明治の学制発布以後に創作された西洋音楽をベースとした我が国独自の唱歌などは、世代を超えて歌い継いでいく必要があるように感じる。
 また、各共通教材4曲の中には、どの学年にもわらべうたか日本古謡のいずれか1曲が示されているが、それらは古い時代から比較的広い範囲の地域で歌われてきたものである。これらの曲は教科書で取り上げることにより、地域や時代のヴァリアンテが消失する事態も起こっている。しかし、わらべうたや民謡などは、それぞれの土地で伝承され親しまれてきたものにこそ、本来のよさや楽しさ、地域性による特色があると考える。地域の特性を生かすという視点からも、そうした味わい深い日本のうたを適宜取り上げ、ヴァリアンテについては柔軟に研究・選択の上、取り上げることが大切である。

4.小学校(音楽)の現状と導入方法の模索


 現在私が勤務する学校では、新しい年度に向けてカリキュラムの再構築について検討を続けている。その中で我が国の音楽といえば鑑賞で取り上げ、共通教材を扱ってきたに留まる。遅れながらも今後はこれらを深化し、少しでも児童が我が国の音楽に近づける環境や校風作りの推進策として、以下の点に絞って初期導入を試みたいと考えている。
1.ゲスト奏者を招き、ミニ鑑賞会(少なくとも1学年160名以内で身近な場所から聴けるコンサート)を設ける。
2.正課で取り扱う前の可能性として3.4年生の選択授業や5.6年生のクラブの時間で和楽器の中から宮太鼓や締太鼓(民俗芸能)と箏(合奏)に取り組みたい。
3.実践に必要な楽器の整備計画と予算要求を行った。
 まず現状では使えなかった箏1台は、この1月に整備を完了している。三味線も検討したが、指導の困難性を考えて児童に取り組ませることは断念した。宮太鼓や締太鼓を使った民謡は、適切な教材を検討中である。鑑賞では児童が実際に楽器に触れられるようにしていきたい。
 選択やクラブなどの発表会を多く持ち、実際に演奏している児童はもちろん、学校中にその音色が響くことによって児童の耳に自然に馴染ませ、関心や意欲を高める起爆剤としたい。以上、本年度後期に行った研究内容の補強と今後、教師自身の意識改革を進めていく節目のレポートとして本稿を結びたい。

 

引用・参考文献
柴田 南雄・遠山 一行 総監修『ニュー グローヴ 世界音楽大事典』(1995)講談社
岸辺 成雄・池田 弥三郎・郡司 正勝 監修『大系 日本の伝統音楽1 総論篇』(1990)筑摩書房
国立文楽劇場事業課『第八十一回文楽公演 国立文楽劇場』(2001)日本芸術文化振興会
文部省 『進む学習指導要領』http://www.monbu.go.jp/series/00000052/(1999)
文部省『教科書用音楽用語』(1994)教科書研究センター

もどる