南宇治中学校吹奏楽部演奏曲解説

 南宇治中学校吹奏楽部が今までに演奏した曲の楽曲解説についてご案内致します。
コンサートに来てくださったお客様が興味を持たれて少し読まれることも嬉しいのですが
演奏者が楽曲を十分知り、深くまで表現をしようとする姿勢があってこそ指導者や指揮者の意図する世界が現実の音となって聴衆に感銘を与えるのだと思っています。
 プログラムの解説や、生徒達、楽団員の皆様の勉強に是非お役立てください。

皆さんにお願い

 もしこのようにお持ちのテキストがございましたら是非メールにて送ってください。提供してくださった方はお名前をご紹介して(匿名でもOK)掲載させていただきます。
 多くの方々が音楽を心から愛し、それをより深く知ることによって感動はさらに大きなものとなるでしょう。
 そのためにも共有の財産としてこれらのデータライブラリー、プログラムノートを皆さんとともに活用していきたいと願っています。
 「一度使ったら一つ出す」の精神でよろしくお願いいたします。


宇治市中学校吹奏楽部演奏曲解説

オーケストラアレンジ曲

■管 弦 楽 の 魔 術 師「ラヴェル」

ラヴェルがフランスの作曲家であるということに疑う余地はないのですが、ラヴェル自身はその両親の祖国にこそ自分のルーツがあるのだと考えていたようです。
 ラヴェルの父親の一族はスイスの国境近くに代々住み、父が生まれたのはスイス国内でした。母マリーはスペインと国境を接するバスク地方の出身で、少女時代の多くをスペインのマドリードで過ごしています。2人の間に生まれたモーリスは後にバスクやスペインの伝統・文化に強く引かれるようになっていきます。
 モーリスは1875年3月7日にバスク地方のシブールで生まれ、3ヵ月後パリに移りました。ラヴェル家は非常に固い絆で結ばれており、母からはバスクやスペインの音楽を愛する心を受け継ぎました。また幼くして父に音楽の才能を見いだされ、7才からピアノ、11才からは和声学や作曲のレッスンをはじめ、目覚ましい上達を見せました。1889年にはパリコンセルバトワールに進み勉学を積むかたわら、異端のフランス人作曲家エマニュエル・シャブリエや、変り者の作曲家エリック・サティに出会い、深い感銘を受けました。ラヴェルは、パリコンセルバトワールの作曲家ガブリエル・フォーレが担当する作曲の上級クラスで学ぶ一方《亡き王女のためのパヴァーヌ》に見られるような古風なものや《スペイン狂詩曲》にみられるスペイン的なものに対するラヴェルの愛着が高まっていきました。
 19世紀末から20世紀初頭にかけ、フランス音楽界には、ワーグーナーの血をひいたフランクの弟子たちを中心にしたロマン派と、ドビュッシーを旗頭に印象主義と象徴主義の流れを汲む新しい派とが、不安定な形で共存していました。しかし1914年、第一次世界大戦の勃発とともに、両派ともラヴェルの世代からの支持を失ってしまいました。ドイツ音楽に対する反発があったのはもちろんですが、ドビュッシーの模倣者に対しても同様に反動が起きました。
 そんな中でラヴェルに影響を与えた出来事は、興行師セルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団のパリ公演でした。ラヴェルはディアギレフから依頼を受け、ダフニスとクロエの物語を主題としたバレエ音楽の作曲を手がけることになりました。このバレエは1912年に初演されましたが、作曲に手間どったうえ、バレエ団や演出家との口論も絶えず、初演は失敗におわりました。音楽も捨ておかれてしまったのですが、再演後は20世紀バレエ音楽を代表する名曲として高い評価を受けています。その後、ラヴェルにとって辛く長かったアメリカ演奏旅行を終えて発表した新作《ボレロ》が好評を博し、彼の名があまねく知れ渡るようになりました。しかし、ラヴェルは喜びこそすれ有頂天になることはなく、次のようなコメントを残しています。「私は傑作を1つ書き上げた。《ボレロ》だ。しかし残念なことに、この曲には音楽的内容がない」
1932年10月、ラヴェルの乗ったタクシーが他の車に衝突しました。彼はこの自動車事故以来、二度とふたたび作曲することができなくなってしまったのです。おそらく最大の不幸は、「唯一私が経験した恋愛の相手は音楽だ」とかつて語ったほど骨の髄まで作曲家だったラヴェルが、晩年の5年間、頭の中で生み出される音楽を解き放つことができなかったことでしょう。

■フランス芸術とスペイン

 19世紀のスペインは、ヨーロッパ諸国のなかでひとり貧しく、戦争に明け暮れる国として突出した存在でした。豊かなイギリスやフランスと違い、スペインには、社会の貧富両階層の間で緩衝材になるべき「中産階級」がほとんど存在しませんでした。政治的決定権は地主・聖職者・軍人の三大勢力が独占し、彼らに対する政治的不満は鬱積していました。下級貴族が浪費を競って階級間の不満と嫉妬を募らせる一方で、社会の底辺では、頻発する農民一揆や暴動によって治安は乱れていきました。こうした要素が社会秩序を徹底的に崩壊させたことに加え、王位継承をめぐる激しい闘争が起こり、スペインを破滅的状態に陥れました。
 国内の内乱と、他国(主にイギリスとフランス)の干渉によって、スペインはヨーロッパでもっとも悲惨な国家となりました。フランスやイギリスが国力と富を増大させたのとは対照的に、スペインの貧困と政情不安はいっそう悪化していきました。
 19世紀の100年間で、ヨーロッパの総人口は、農業、科学、医学の進歩によって2倍に膨れ上がりました。特にイギリスでは産業革命に伴い、繁栄の拡大、都市化が始まり、前途は洋々たるものでした。しかしスペインには、こうした発展の影響はまったく及びませんでした。農業は後進的水準にとどまり、産業は皆無といっていい状態でした。
 スペイン人の荒々しいがロマンティックな魅力、いかにも頑固そうな国民性は、フランス人の心をすっかり虜にしました。スペインでは芸術は大地からそのまま生まれ、気性が激しく闘争心にあふれた国民が不撓不屈の個人主義を背負って生きてきました。
 スペインはまた、独自の豊かな民族音楽・歌謡・舞踏の伝統をもち、こうした伝統を少しも変えることなく保ち続けていました。こうした伝統が保たれたのは、農村生活のなかで延々と受け継がれてきた「祭り」、これが、ヨーロッパ諸国を激変させた「近代化」によっても、いささかも損なわれなかったことによります。さらに、地理的条件によるところも大きいです。
イベリア半島には文化的障壁として多くの山脈が走っており、各地方が独自性豊かな地方色をもっていました。さらに、他の国々同様、スペインもさまざまな民族の移民や侵入による影響を受けました。16世紀には、初めてジプシーがスペイン国内に入り、フラメンコの激しいリズムを伝えました。その後、南アメリカ文化との接触や、隣接するフランス文化からも強い刺激を受けました。
 フランス南部と国境を接していたことも重要な役割を果しました。国境線があいまいなピレネー山地では、バスクやカタルーニャと、フランス南部との人的交流が盛んで、早くからスペインの地方文化の影響がフランス国内に及んでいました。

■『スペイン狂詩曲』

 ラヴェル自身、スペインをよく知っていたという訳ではなかったのですが、彼の作品『スペイン狂詩曲』はこの国の風土を見事に表現しています。スペインの作曲家マヌエル・ド・ファリャはこの作品について、「スペイン民族音楽のリズム型、メロディー、そして装飾音を自由に使っているが、作曲家の自然なスタイルは損なわれていない」と述べています。

2.マラゲーニァ

ぼんやりとした、しかしリズミカルな序奏楽章は始まり、トランペットとタンブリンによって、引き継がれた主題を、またすぐにトランペットが取り返し、フル・オーストラの演奏を誘い出す。かすかなハープのグリッサンドに乗って、コーラングレがアラベスクを歌い上げます。「夜への前奏曲」の雰囲気に戻ると、ほんのつかの間、前楽章の4つの音の動機が再現されます。冒頭のリズムがもう一度弱々しく現われ、「マラゲーニァ」は消えるように終わります。

4.フェリア(祭り)

 この楽章も幕は静かに開きます。ハープとピッコロという絶妙な取り合せが、軽やかな、震えるようなリズムを告げます。これが反復音によるファンファーレを導き、オーケストラがスペイン風に加わって、打楽器と重厚な金管が多用される騒然としたトゥッティ(総奏)を築きます。その後、気ままな舞曲の旋律が雰囲気を断ち切り、ホルンが旋律を奏する部分では、とりわけ気分が高揚します。ふたたび動きが活発になり、音量が増し、騒々しいトゥッティが繰り返されますが、今度は、最高潮に達したとたん、祭りの群衆が散り散りになるように、曲のエネルギーも弱まっていきます。そこに突然、酔っぱらったようなコントラバスがよろよろと登場します。この酔っぱらいを介抱するのは、新たに主題を奏するコーラングレです。ここで第1楽章「夜への前奏曲」の雰囲気が4つの音の動機を伴って再現されます。しかし、それも途絶えると、弦のうねりのなかに耳慣れた旋律が戻ってきます。 その後のクライマックスはさらに熱狂的で激しくなります。管弦楽によるこの大混乱がほんの一瞬とぎれたあと、最後の大旋風が巻き起こって、喧騒のうちに《スペイン狂詩曲》は宴を終えます。                        

 

■劇音楽の天才 ジョルジュ・ビゼー

 ジョルジュ・ビゼーは音楽家としての輝かしい道を歩むことを約束されていました。音楽に造詣が深かった両親は、音楽家として成功する日が息子に訪れることを予見し、励ましました。ジョルジュの天賦の才は幼くして花開きました。パリ音楽院の教授陣も天才少年ピアニストの出現に驚嘆し、彼の入学を特別に許可したほどでした。
 しかしながら、成功への道を歩むはずのビゼーは、決して栄誉を手にすることのない運命にありました。病と自信喪失による情緒不安定に苦しむ日々を送り、その優れた才能は短い生涯の間ほとんど認められることがありませんでした。オペラ《カルメン》の初演が失敗に終わった数週間ののち、ビゼーはわずか36歳にしてこの世を去りました。しかし皮肉なことに《カルメン》は今日、世界中で最も愛されるオペラの一つに数えられています。
 1875年3月3日の朝、若き作曲家ジョルジュ・ビゼーにレジオン・ドヌール勲章のシュヴァリエ章をじゅよするとの発表がありました。その晩オペラ・コミック座で初日を迎える《カルメン》にとっては吉兆でした。みずからの音楽の模索ののち、36歳にして彼はついに批評家をも満足させる作品を書き上げました。「複雑すぎる、着想よりも技巧にとらわれる、と彼らは主張する。しかし、今度こそは私の作品も、明快で陽気、華やかで美しい旋律だ!」。出演者の問題や苦しい早朝のリハーサルなど、数回に及ぶ初演の延期にもかかわらず、携わった人々は期待に胸ときめかせてオペラの開幕を待ちわびていました。
 しかしながら、初演は失敗に終わった。不出来なコーラス、オーケストラ、未熟な演技にくわえて、小節を数え間違えた太鼓奏者がピアニッシモのソプラノ独唱部分で大きな音を2回またたいて観客を驚かせたり、コーラスの女性数名が舞台上で吐き気を催したり、音程のとれないテノール独唱者など、不幸が重なったのでした。
 多くのパリの新聞評が《カルメン》には旋律が欠如していると非難しました。しかしながら、批評家の不評を買った最大の原因は、《カルメン》のいわゆるわいせつ性”にありました。「カルメン役のガリ=マリエが、警察の介入を免れないほど挑発的にその役を演じた」「彼女の舞台演技は、悪徳の権化そのものであり、声にも卑わいさがある」などと評されました。
 当時のオペラのヒロインは受け身で純情無垢、運命の逆境に苦しむのが常でありました。ところが、カルメンは悪の要素をも併せもつ新しいタイプのヒロインであり、その開放的な性の容認、主人公ドン・ホセを誘惑して破滅に導く役は、当時の観客にとって耐え難いものでした。オペラ・コミック座では、前例のない最終場面の殺人がいっそう彼らの怒りを買い、ハッピーエンドの大団円への書き換え依頼に失敗した劇場支配人が辞職するという事態までに発展しました。
 さらには、当時のオペラ・コミック座は上流社会の見合いの場としても利用されていましたが、《カルメン》の初日後は、その“下品さ”ゆえに、もはやそうした場にふさわしくないと新聞数紙が報じました。ビゼーは絶望し、加えて扁桃腺炎の悪化にまたも悩まされました。しかしオペラは第5夜めでの打ち切りをかろうじて免れ、上演されつづけました。
 33回めの公演中に、カルメンが自分の未来をカルタで占う場面で、ガリ=マリエがはた目にも明らかなほどに興奮し、幕が下りると同時に彼女は大声で泣きはじめ、ステージの袖で気絶しました。彼女と作曲家が愛人関係にあるとの噂があり、これを見た劇場の新支配人は、2人の間に痴話喧嘩でもあったのだろうと秘かに楽しんでいました。ビゼー死去の知らせが届いたのはそれから数時間後のことでした。
 同年10月に《カルメン》がウィーンで成功を収めると、ただちにヨ−ロッパ各地やアメリカで上演されるようになりました。

■ビゼーと歌劇「カルメン」         

 歌劇「カルメン」を作曲したジョルジュ・ビゼーは、1838年にパリに生まれ9歳でパリ音楽院に入学しました。作曲をグノーなどに学びローマ大賞を受賞してイタリアのローマに留学しました。パリに戻ってからは定収入のない不安定な生活の中で作曲に専心し、「アルルの女」など劇音楽や歌劇の作品を発表しました。彼の作品の中で際立って評価の高い歌劇「カルメン」が初演されましたが、そのリアリズムを聴衆に受け入れられず失敗に終わりました。その数週間の後、今日の成功を知る事無くビゼーはわずか36歳にしてこの世を去りました。歌劇「カルメン」は生気にあふれたリズムと旋律、簡潔で美しい管弦楽、各場面での無駄のない音楽表現、最も節約した手段で生み出す最大の劇的効果など、フランス作曲家だけに可能な特色を見せており、その迫真のリアリズムはイタリアオペラ界にも大きな影響を与えました。   《闘牛士の歌−前奏曲》 第1幕の前奏曲は2つの部分から成っています。はじめの曲は激しく熱狂的な旋律で始まりますが、これは第4幕の闘牛士が入場する際の行進の音楽です。途中で同じ第4幕で歌われる闘牛士の歌が入り、再びにぎやかな音楽が最高潮に達して終わります。一瞬の静寂の後、がらりと雰囲気が変わり、不気味な重苦しい「運命の主題」と呼ばれる旋律が現われます。これは主人公カルメンの悲劇的な結末を予言するもので、カルメン全幕で何度も現われます。劇的な効果の高まりと共に終幕を暗示するかのようにして第1幕へと導いていきます。

《アラゴネーズ》 第4幕の前に演奏される間奏曲で、8分の3拍子の華やかな舞曲です。この旋律はスペインのアンダルシア地方アラゴンの民族舞曲から採られたもので、終幕のにぎやかな気分を盛り上げます。その一方でオーボエがむせび泣くような旋律を奏し、民族色を強く感じさせます。

《間奏曲》 この曲は第3幕の前に演奏されるもので、たいへん牧歌的な曲で歌劇の血なまぐさい気分を一新する美しい旋律をもっています。もとは「アルルの女」のために書かれた曲で、ハープの奏する分散和音の上に一抹の淋しさを感じさせる旋律がまずフルートで奏されます。続いてクラリネット・イングリッシュホルン・ファゴット・オーボエと次々に受け継がれ、美しい対旋律と織り合わされながら次第に高まりを見せ、また消えるように終わります。

《ジプシーの踊り》 第2幕の幕が開くとセヴィーリャの町はずれの酒場、カルメンが仲間たちの前でジプシー女たちがタンブリンを手に踊りだします。酒場の華やかで妖しげな雰囲気は次第に盛り上がりを見せ、カルメンたちも歌と踊りに加わります。テンポが早まり強さが増していくこの曲は全幕を通してとりわけ異国的な香りの強い舞曲です。

■レスピーギとローマの噴水

オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi)は1879年7月9日、イタリア北部のエミリア・ロマーニャ地方の町ボローニャに生まれ、1936年4月18日ローマに没しました。 20世紀イタリアの復古主義(イタリア・ルネッサンス)の一翼を担った作曲家で、イタリアの伝統的音楽の要素と民族主義を巧みに結びつけました。
 レスピーギはボローニャ音楽院でヴァイオリン・ヴィオラと作曲を学び、1900年にはサンクト・ペテルブルグの王立歌劇場の首席ヴィオラ奏者を務めました。そこではロシア国民楽派のリムスキー・コルサコフに作曲を師事し、多大な影響を受けました。その後ドイツのベルリンへ行き、マックス・ブルッフにも作曲を師事しています。
 レスピーギは作曲のほかにもオーケストラのヴィオラ奏者や室内楽奏者としても活躍し、モンテヴェルディ等の編曲も注目を集めています。そして1913年にはローマに戻りサンタ・チェチーリア音楽院の作曲教授となり、院長も務めました。音楽院を退いた後も自作の指揮や伴奏で世界中を演奏旅行するなど、その音楽人生は大変エネルギッシュなものでした。彼は師のリムスキー・コルサコフやフランス印象主義のクロード・ドビュッシー、さらには近代ドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウス等の影響を受け、作風は叙情的かつ技巧的で、非常に豊かな色彩感を持っています。またイタリアの古風な音楽様式や歴史風土にも深い関心を示し、作品に反映させました。

「ローマの噴水」(FONTANA DI ROMA poema sinfonico per orchestra)は《ローマ三部作》と呼ばれる3つの交響詩の中で、最も早い時期に書かれた作品で、1916年の秋に完成し、翌年の3月に初演されました。しかしこの初演の評判はさんざんなもので、レスピーギは噴水のスコアをしまいこみ、しばらくはこの作品を忘れていたぐらいの大失敗でした。
 こうして4年後の1918年トスカニーニの指揮によってミラノで再演され、大成功を修めたのでした。そして出版されたスコアにはその情景描写についてレスピーギ自身による説明が付けられています。それによると作曲者はこの交響詩の題材にローマの4つの噴水を選び「それぞれの噴水が周囲の風景と最もよく調和する、あるいは見る人が最もそれらの美しさをとらえる時刻に注目し、その時受けた感情と幻想に表現を与えようとした」作品がこの「ローマの噴水」です。作品は連続して演奏される次の4つの部分からなっています。

第1部「夜明けのジュリアの谷の噴水」(La fontana di Valle Giulia all'alba)

 ジュリアの谷は「ローマの松」にも出てくるボルゲーゼ公園の丘とそのやや北側にあるパリオリの丘に挟まれた辺りを指します。噴水はそのフィルドゥーシ公園にあって、シャングラスのような形をした大きな噴水が2対並んでいます。
 曲はアンダンテ・モッソ、4分の6拍子。霧の立ちこめた静かな夜明けの情緒を表現した音形によって情感たっぷりに始められ、それにのって色々な楽器のソロが現われます。中間ではやや速度を上げますが、全体としては牧歌的な情緒に溢れ、テンポを戻して木管楽器のソロで受け継がれ、第2部に進みます。レスピーギは「交響詩の第1部はジュリアの谷の噴水から霊感を受けたもので、牛の群れが通り過ぎ、ローマの明け方に立ちこめた霧の中に消えていくという牧歌的な風景を描いている」と書いています。

第2部「朝のトリトンの噴水」(La fontana del Tritone al mattiono)

 トリトンの噴水は、一日中車の通行の絶えることのないローマの交通の要所バルベリーニ公園にあります。彫刻家ジョバンニ・ロレンツォ・ベルニーニの作品で、ギリシャ神話の海神トリトンが空に向かってほら貝を吹き上げる姿をしています。
 曲はヴィーヴォ、4分の3拍子でトリトンの吹くほら貝をイメージさせるホルンの力強い吹奏と、それに絡むオーケストラ全体のトリルにより始まります。レスピーギは「それは水の精ナイアードと海神トリトンの一群を呼び集めるための喜ばしい叫び声のようだ。ナイアードやトリトンたちは駆け上がり、互いに求めあい、水の噴出の中での物狂わしい踊りの中でひとつになる」と書いているがその通り非常に変化に富み、リズミカルかつダイナミックに演奏される部分で、曲を終始支配するホルンはとくに印象的です。そうして最後に大きなクライマックスを築き上げた後、しばし安らぎを感じさせると続いて第3部に移っていきます。

第3部「昼のトレヴィの噴水」(La fontana di Trevi al meriggio) 

トレヴィの噴水は、トリトンの噴水のあるバルベリーニ広場の近く、ポーリ宮を背景にした所にあります。今の観光案内所でもここだけは“トレヴィの泉”と呼ばれていますが、もちろん人工のもので、起源は紀元前19年にアウグストゥス帝一族が造らせた延長20qの水道の末端の噴水でした。その後の破壊や改修を経て18世紀には今のデザインとなりました。ポール宮の壁面に刻まれた勝利のアーチを背にネプチューンが立ち、左右に2頭の海馬とそれを御するトリトンの彫刻のあるものです。この噴水には“ローマにもう一度戻りたいと願うなら、後向きにコインを投げよ”との言い伝えがあり、ローマを訪れる観光客が必ずこの噴水にやって来るということです。
 曲はアレグロモデラート4分の3拍子で、まず荘重なテーマが木管楽器によって提示され、そのテーマは次第に力を増していき金管楽器へと受け継がれます。その後、音楽は色彩と激しさを加えて速度を早めていきます。やがてオルガンの和音がこれに加わると音楽はムードを変えてラルガメンテ2分の2拍子となり、雄大にクライマックスを作り上げます。盛り上がりも静かに収束して第4部へと移っていきます。レスピーギはこの部分に「テーマは木管から金管へと受け継がれ、勝ち誇ったような感じを帯びる。トランペットが鳴り、光り輝く水面を海馬に引かれたネプチューンの馬車が人魚とトリトンの列を従えて過ぎていく。行列はその後遠くから再び響くトランペットの中を消えていく」との説明を書いている。

第4部「黄昏のメディチ荘の噴水」(La fontana di Villa Medici al tramonto)

メディチ荘(メディチ宮殿)は、ボルゲーゼ公園の馬術競技場のすぐ南西に位置し、ピンチョの丘からスペイン広場につながる美しい散歩道の途中にあります。このメディチ家の宮殿は1803年以来ここにナポレオンがフランス・アカデミーを移し“ローマ大賞”を受けた作曲者たちの宿舎にしたことでも有名です。そのヴィラ・メディチにある円形に広がった形の噴水が、レスピーギの選んだ4番目の噴水です。
 曲はアンダンテ4分の4拍子、木管楽器が感傷的なテーマを提示して始まります。レスピーギはこの部分に「夕暮の郷愁のひととき。大気は鐘の音、小鳥のさえずり、木々のざわめきなどに満ちている。その後、これらの全てのものが夜の静けさの中に消えていく」との説明を加えています。曲は最初のテーマを色々な楽器に受け継いで発展していきます。その後少し速度を落とし、別のテーマと小鳥のさえずりを模したフレーズも聞こえます。やがて再び最初のテーマが現われフルートが歌い終わると、そこにはもはや鐘の音だけが残るばかりになって、夜の帳と共に静寂が訪れ、消え入るように曲は終わります。

木村吉宏による編曲について

 今回取り組むウインド合奏用のテキストは、1988年11月16日に大阪フェスティバルホールで催された第57回大阪市音楽団定期演奏会のために書き下ろされたもので、テキストは同年10月13日に完成し演奏会当日は、その日の客演指揮者、小泉ひろしによって演奏されました。
 その特徴としては、編曲者の長い演奏経験から得られた楽器群の自由な組み合せにより、ブレンドの効いた豊な響きのするテキストにオーケストレーションされていることです。弦楽部を失って、ややもするとギスギスとした響きに陥りがちなウインド・バンド用の編曲が多い中で、その深みのある響きは編曲者のテキストに共通する大きな特色となっています。また完全なるプロ用テキストとしてどのパートの演奏者にも均等に質の高いレベルの要求がなされていることも見逃せません。

編曲者の木村吉宏(きむら よしひろ)は1939年兵庫県尼崎市の生まれで、大阪市音楽団に入団。以来、クラリネット奏者、コンサートマスターを経て、現在は同団団長兼常任指揮者として活躍。その一方で、編曲にすぐれた手腕を発揮し、これまで大阪市音楽団のために数多くの管弦楽曲の吹奏楽編曲を手がけている。                        

■「ウェーバーの主題による交響的変容」より“行進曲”            

 ヒンデミットは1895年にドイツに生まれ、9歳からヴァイオリンを学び、フランクフルトの音楽院で学んだ後、オペラ座のコンサートマスターに就任しました。1937年には、ヒットラー政権に追放され、アメリカに渡りました。彼の作風は〈新即物主義〉と呼ばれ、平易なスタイルで演奏の喜びに満ちた作品を数多く発表しました。
 ヒンデミットのアメリカでの作品の中で最も成功したのが「交響的変容」です。ここでは4つの楽章は交響曲の様式に配列されていますが、その主題はウェーバーの「トゥーランドット」の音楽と「四手のためのピアノ曲集」から採られています。かつての調性やリズム的均斉は犠牲にされ、対位法的な骨格も弱められたような感じを受けるのですが、欧米の評論家は「ヒンデミットの最も円熟した作品」のひとつにあげています。
 「交響的変容」の第4楽章は、主題を四手のためのピアノ曲「8つの小曲」の第7曲 Marcia maestosoから採り、最も戯作的な性格を持っています。曲は冒頭のトランペットとトロンボーンによる倣漫なファンファーレに始まり、木管楽器が行進曲の主題を奏します。この主題と共に情感豊かなホルン主題とで行進曲が構成されますが、初めのファンファーレを模した木管合奏でさらに展開部が始まります。まず主要主題が展開され、続いて副主題が緊迫しながら展開していきます。その頂点が直接再現部に続き、金管の主要主題を総奏で華やかに飾って終わります。

■ シバの女王ベルキス

レスピーギは詩的で視覚的な霊感にあふれた音楽を書き、当時のイタリアで最も成功を収めた作曲家として有名です。この作品は、レスピーギの音楽の、疑う余地もない幅の広さと質の高さを十分に明らかにするものでありながら、《ローマ三部作》の成功によって影に追いやられてきた数多くの作品中の例でもあります。

1931年にレスピーギは彼の最も野心的な舞台作品のひとつである《シバの女王ベルキス》の音楽の作曲を始めました。この叙事詩的なバレイの大作は次のシーズンにミラノのスカラ座で上演される予定でした。聖書の中にある、このソロモンとシバの伝説に見られるエギゾティシズムに、レスピーギはかねてから魅力を感じていました。そして彼は自分の作品の中でこの物語を語るために、ヘブライとアラビアという2つの要素に注目しました。すなわち彼は古代ヘブライの歌の旋律的特徴をだすために東洋的なリズムを強調し、多くの種類の民族的打楽器を使用しました。このバレエのための作品は、紀元前1000年にシバの女王ベルキスがイスラエルの王ソロモンの命に応えて挑んだ不思議な旅を思い起させます。鳥や風はソロモン王に、南国の若い女王が遠い彼方から彼のことを愛していることを告げました。そこでソロモンは王女に、彼からの最大に敬意を受けるために宮殿に赴くよう伝えました。ベルキスは宝を満たした馬車にのって戦士や奴隷、それに象やらくだと共に砂漠を渡りましたそしてベルキスとソロモンの出会いは熱烈な歓喜によって祝福されます。この80分に及ぶバレエの上演には、通常のオーケスタラの他にシタールや風音機などの見慣れない楽器、またオフ・ステージにはブラス隊、合唱、ヴォーカルのソリスト数名、それにこの伝説的な物語を吟詠するナレーターなど、大規模な編成を必要としました。

レスピーギの妻エルザはリハーサルに立ち合い、「スコアの多彩さは目もくらむほどで、斬新で美しい楽想に満ちあふれていた。」と書き残しています。だいほんさっかのくらうでぃお・グアスタッラは、過去に聖書から題材をとって構成したオペラ台本を使ってシナリオを提供しました。有名なロシアの振り付け師レオニード・マシーンが各場を脚色し、非常にヴァライティに富んだ振り付けを行ないました。マシーンは優秀なペルシャのバレリーナ、レイナ・ベデルハンをベルキス役に採用しました。ソロモンを演じるのは当時の若い世代を代表する一人、ダヴィッド・リシーンです。舞台美術はニコラ・ブノハが担当、驚嘆させるほどの華美なデザインの背景幕と壮大なセットを制作しました。また600を超える衣装がデザインされ、贅沢な装飾がもりこまれたエンタテイメントが考案されました。

バレエの初演は1932年1月23日に行なわれ大成功を収め、イタリアのみならず外国の各誌紙でも高く評価されました。ニューヨーク・タイムズのレーモンド・ホール記「レスピーギは技法面での偉業を成し遂げた。彼は主として色彩とスペクタクル性に努力を注いだが、その目的は華麗に達せられ、スコアは活気あるオリエンタルな雰囲気に終始浸されていた。贅を尽くしたスペクタル《シバの女王ベルキス》はこの種の凶行におけるマイルストーンたりうる名作のひとつといえる。」

2年後、レスピーギは管弦楽用の組曲を抜粋しました。収録されているのはこの組曲です。出版された組曲の曲順はバレエの進行におおかた従っているが、収録にあたっては中間のふたつの楽曲の曲順を入れ換えて演奏しています。それは全体としての音楽的・劇的コントラストをより強めるためです。

第1曲〈ソロモンの夢〉−バレエの冒頭、エルサレムにある、松明けが灯されたソロモン王のハーレムの場面に由来します。短い、考え込むような前奏のあと、星の輝く夜空を見つめているソロモンの孤独な姿を描写したあと、荘厳な行進曲風のエピソードが続く:「美しい王が入場する。その態度は神々しく威厳高いが、深い物思いに沈んでいる。」表情豊かなチェロの独奏のあと、弦のユニゾンが情熱的な愛の音楽を奏でます。これはバレエでは後段に現われる、ベルキスとソロモンの現実の出会いを描写する音楽から採られたものである:「そして彼女が視線を上げるとそこには、遥か果てなる地でその愛の呼びかけを聞いた、賢明でおおいなる力を持ち、かつ美しい王の姿が見える。若き乙女は感動を抑えきれず、落命した子鳩のように彼の足元にくずれ落ちる。

最後の第4曲〈狂宴の踊り〉はバレエのフィナーレを飾る、ソロモンとシバの国の連合を祝う音楽です。レーモンド・ホール(前出)はこう記しています。:「一千人余りの人々がスカラ座のステージで繰り広げる饗宴は、次第に盛り上がり、耳を裂くような激動的サウンドと激発的リズムになだれ込みます。これに匹敵するものは、(ストラヴィンスキー作曲のバレエ)《春の祭典》におけるディオニュソス的なクライマックスくらいなものです。スカラ座初演の時、それは観衆(聴衆)を熱狂的興奮におとしいれ、絶え間ない大喝采が沸き起こりました。スピーギはその大騒音を、少なからぬ冷笑的意地悪さをもって執拗なまでに打ち砕いてしまった。」背景はソロモンの壮麗な宮殿の、西洋杉とシュロの木が生い茂る庭園です。そこでは歓喜の宴が用意されています。若い男女、戦士、奴隷たちなど、様々な肌の色を持つ諸民族の大群が立ち上がり、自由に笑い声を上げ、触れ合う喧騒の中、踊り狂います。そして、熱狂が最高潮に達するとき、舞台高所奥にだんだんと2つの玉座が照らしだされ、そこには威厳高く、ソロモン王とシバの女王が座している−−−−金の偶像のように不動の姿で。」

 

■「ルスランとリュドミーラ」序曲

 グリンカの全作品のなかで、もっとも広く親しまれているのが、この序曲です。プレストのテンポで押し通すこの曲を、いかに速く演奏できるかが、オーケストラの技巧の見せどころだ、などといわれ、軽快で華麗な曲想と、よどみなく流れる旋律が特徴です。この曲はロシアの管弦楽作品の発展の歴史のうえで、重要な位置をしめるものです。
 管弦楽法は、従来のイタリア様式を脱して、ドイツ音楽からの影響を多く受けました。序曲の主題は、すべて歌劇の中の楽想から得られており、歌劇そのものも、モーツァルトなどに負う所が少なくありません。
 プレスト、二長調、二分の二拍子。整然としたソナタ形式で書かれ、作曲者自身の表現だと「全速力で疾走する」ように演奏するとされています。第一主題部は第五幕の婚礼の場面の華やいだ前奏の音楽が用いられ、全合奏のアタックに始まり、弦のかけめぐるような楽想をはさんで軽快に進みます。それを受けて有名な第一主題が現われ、推移します。第二主題はヘ長調に変わり、これは第二幕の「ルスランのアリア」から得られたもので、ロシア的性格が強いです。この主題が二短調に移されて繰り返される扱いは効果的です。展開部は序奏と第二主題の断片で組み立てられ、強奏でしめくくられた後、弦のピッィカートを中心に弱音で経過し、やがて弦の激しい動きが起こって再現部に入ります。ここでは第一主題、第二主題ともに二短調で現れます。型通りに進んでコーダになり、第一主題にかぶさって低音による下降音型が響きわたります。この下降全音音階のモティーフは、第一幕でリュドミーラが掠奪される場面で現われるチェルノモールのモティーフであり、ドビュツシー以前に全音音階を用いたもっとも早い例として有名です。このあとピウ・モッソで華々しく全曲が終わります。

 

■『小 組 曲』 

この曲は4曲とも対照的な中間部をもつ、複合三部形式で書かれています。声と詩に結びついた楽種では、「忘れられた少歌」「ボードレールの五つの詩」「選ばれた少女」のような、かなり個性をみずみずしくあとづけた作品を書いているのに、パリのコンセルヴァトアールで二等賞をもとにしたピアノ弾きのドビュッシーが、ピアノの作曲でまだ伝統的なかたちの枠をぬけだせずにいたのは、なぜだったのか。とはいえ「小組曲」は、爽やかな詩情というか若々しい抒情が、ベートーヴェンからワーグナー、ブラームスにいたるドイツ・ロマン派の重い感傷とははっきり別な感受性の地平をすでに歩みはじめていることを、明らかにうかがわせる魅力的な作品です。

第1曲<小舟にて>は、いわばバルカロールで、アンダンティーの、8分の6拍子、ト長調、分散和音の上に優しく揺れる旋律が美しいです。中間部、二長調はもっと律動的になります。第2曲はモデラート、4分の4拍子、ホ長調が現われます。3度の併進行の主楽想---「鹿皮お仕着せ猿の櫓払い/ちょこちょこぴょんとはねてゆく」と訳されます。中間部のスケルツァンドは、切分音のリズムで主部に対する効果的な対象を見せます。---[女神のあらわなトルソから/抜け出たふくよかな宝物」と訳されます。

第3曲<ムニュエル>(メヌエット)は、やはりモデラートと指示があり、4分の3拍子、ト長調によっています。序奏に先立たれ、典雅な旋律がルイ王朝ふうの舞踏風景をえがきます。二長調の中間部も、優美な曲線をすてません。

第4曲<バレエ>---アレグロ・ジュスト、4分の2拍子、二長調が現われます。やはりルイ王朝の当時の、14世も好んで踊ったというバレエの、はずむ曲調を喚起しようということでしょう。中間部は円舞曲のテンポで、8分の3拍子、ト長調が基調になっています。ト長調、ホ長調などと記しましたが、これらの間に時おり控えめながら教会旋法による音調の処理や、全音音階の萠芽がくみこまれているのを、聴き落とせません。それらは長調・短調の枠をこえた音を、断片的であるにせよ響かせます。同じころの歌曲のほうがさらにその点大胆だったように思われますが、それはともあれ「小組曲」も、初期の作とはいうものの、ドビュッシーの革新の第1歩をたしかにもう踏み出しています。「小組曲」は、のちにアンリ・ビュッセルが管弦楽のために編曲したほか、いろいろな楽器のために編曲がおこなわれています。

■20世紀音楽の旗手

クロード・ドビュッシーは、1862年8月22日、5人兄弟の長男としてパリに生まれました。家は貧しく、父マニュエルは責任感に欠けた男で、金銭的なことも家庭のこともほとんど顧みませんでした。母ヴィクトリーヌもきままな人間で、自分に子供があることをいつも忘れたかのように暮らしていました。一家の不安定な生活は1871年、父マニュエルがパリ・コミューンに連座して投獄されたとき、その極みに発達しました。しかし、このころ父親が知り合った友人の母親アントワネット・フローラル・モーテ夫人がクロードの音楽的才能に注目し、彼の運命は一変しました。
 9才のクロードは、コンセルヴァトワール(パリ音楽院)の入学を目指し、1872年夏の入学試験に見事合格しました。音楽院でドビュッシーは、3年間めざましい上達をとげました。1875年の音楽院のコンサートでは、「何という表現力………このモーツァルト2世はまさに天才そのものだ」と評されています。
ところが、3年もたたないうちに彼の興味は作曲へと移り、ピアニストとして成功する夢は霧散してしまいました。1877年にピアノ部門で2等賞を受けて以降、ピアノ演奏に関する受賞はありません。ピアノへの情熱が薄れる一方で、音楽理論の分野におけるドビュッシーの活躍はめざましかったです。彼は、和声で実験を試み、斬新な曲を発表しては、よく論議の的となりました。既存の音楽理論への挑戦ということなら、どんなことにでも興味を示す異端の生徒ではあったのですが、試験で良い点をとるための勉強は怠りませんでした。1880年には「実用和声」で1等賞を獲得し、念願の作曲科への進級を果しました。一方、前年の1879年、彼の前に新しい刺激的な世界が現われました。この夏ドビュッシーは、かつてのピアノの師マルモンテルの紹介で、ワーグナーの熱狂的な信奉者である富豪マルグリット・ウィルソン・ペルーズ夫人の住み込みのピアニストをつとめることになり、美しく豪奢なシュノンソー城でひと夏を過ごしました。
 1880年夏には、彼はさらに豪奢な生活を満喫しました。今度は、チャイコフスキーのパトロンとして有名なロシア人の富豪なジェージダ・フォン・メック夫人宅での仕事をマルモンテルから紹介されたのです。1882年までの3年間、夏休みになると彼はフォン・メック一家に合流し、ピアノを演奏したり、子供たちにピアノを教えたりしました。一家に同行してヨーロッパ各地を訪れたおかげで、ドビュッシーはピアノ伴奏者・家庭教師としての名を広めることができました。裕福な人々の洗練された生活をまのあたりにして、ドビュッシーは少なからず刺激を受け、そのような生活にあこがれました。この野心あふれる青年が初めて自作を献呈したのも、フォン・メック夫人でした。夫人はその作品をチャイコフスキーに見せて意見を仰ぎましたが、この大作曲家からは「なかなかの作品だが、いかにも短すぎる。音楽的な発展もなければ、形式もでたらめだ」いう痛烈な批評が返ってきました。こうして、作曲家として成功しようとしたドビュッシーの最初の試みは、完全な失敗に終わりました。
こうした間にも、パリへ戻れば勉学中心の生活がつづきました。気の合う芸じゅうつ仲間と野交遊が始まり、夜は彼らと一緒に過ごすことが多くなりました。連れだってモンマルトルのキャバレーに足繁く通った仲間には、作曲家のエリック・サティやポール・デュカス、詩人レーモン・ボヌールらがいました。彼ら若き芸術家たちはフランス象徴主義の詩人ポール・ヴェルレーヌ、ステファヌ・マラメル、テオドール・ド・バンヴィルらと運命的な出会いをしました。
 1884年、ドビュッシはローマ大賞のンクールに応募し、大賞を受賞しました。大賞受賞者は奨学金を支給され、ローマのヴィラ・メディチで4年間作曲の勉強をすることができました。しかし、長年の夢がついに実現したにもかかわらず、到着したときから、ヴィラにも、先輩の受賞者たちにも、そしてローマにも、彼はけっして相容れないものを感じていました。ローマ滞在が3年めに入ると、ついに耐えきれなくなった彼は音楽院に退学届を書き送り、懐かしいパリへ、ヴァニエ夫妻のもとへ逃げ戻ってきたのです。1889年のパリ万国博覧会で、ドビュッシーは東洋の文化・音楽に出会い、つよく引き付けられました。コーチシナ(現ベトナム)巡回劇団の風変りな所作に づけとなり、ジャワ(現インドネシア)のコーナーでは「衝撃のガムラン(旋律打楽器を中心とした合奏)が奏でる、この世のものとも思えぬ美しい音色と複雑なリズムに耳を傾け」、何時間も何日もそこで過ごしました。以後20年間にわたって、彼の作品や思想には東洋の影響が強く現われることになります。これはドビュッシーに限られたことではなく、同時代のゴーギャンやゾラ、マネといった画家や文学者たちにも共通したことでした。しかし、その後しばらくはドビュッシーにとって模索の時期となり、作曲活動は進みませんでした。 1894年になって突如として風向きが変ります。マラルメの詩への深い共感が見事に結実して、《牧神の午後への前奏曲》という傑作が誕生したのです。マラルメの有名な象徴詩を音楽で表現したこの曲は、完璧無比かつ画期的な作品で、フランス音楽、さらに西洋音楽全体の潮流を変える傑作となりました。収入にはつながらなかったものの、この作品はヨーロッパ中で好評を博し、パリ以外でもドビュッシーの名は一躍有名になりました。しかし、ドビュッシー自身はそうしたことにはまったく無関心で、ルイスをはじめとする友人や出版業者アルトマンらの厚意に甘え、愛人とともに赤貧の生活をつづけていました。彼らの善意に支えられ、オペラ《ペレアスとメリザンド》の作曲にも没頭することができ、徐々に生活も改善されていきました。ドビュッシーとラヴェル近代フランスの作曲家である二人の作風を比べてみましょう

 

【作風】《ペレアスとメリザンド》が確立した作風は、和声の機能的な取り扱いや動機の展開処理にもとづく構成を退け、旋法的・全音音階的・5音音階的な旋律と和声で、精妙な響きと音色を通して想像力にうったえます。協和不協和を問わぬ5・7・9・付加2度6度の和音、変質和音、増和音などの、しばしばオルガヌム的な平行進行による自由な結合は、機能的調性とその形式から音楽を解放し、現代音楽のための道を開いた。印象派美術や象徴詩と類比され、音楽上の印象主義とよばれもします。

 

【作風】ラベルはゆたかで独創的な和声を書き、その精緻で繊細な音色感覚が、響きの魅力をとおして聞き手の想像力に働きかけました。この点でかれはドビュッシーに通じます。だが当然異なる個性としてかれは、調という基盤の上に均整のとれた旋律で明瞭な輪郭をえがき秩序だった形式をつくりだす古典主義者、仕上げの完ぺきさに職人的な誇りをいだく<名人>でした。そして舞踏の動的なリズムに魅せられていました。

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■「ウェーバーの主題による交響的変容」より“行進曲”           

ヒンデミットは1895年にドイツに生まれ、9歳からヴァイオリンを学び、フランクフルトの音楽院で学んだ後、オペラ座のコンサートマスターに就任しました。1937年には、ヒットラー政権に追放され、アメリカに渡りました。彼の作風は〈新即物主義〉と呼ばれ、平易なスタイルで演奏の喜びに満ちた作品を数多く発表しました。
ヒンデミットのアメリカでの作品の中で最も成功したのが「交響的変容」です。ここでは4つの楽章は交響曲の様式に配列されていますが、その主題はウェーバーの「トゥーランドット」の音楽と「四手のためのピアノ曲集」から採られています。かつての調性やリズム的均斉は犠牲にされ、対位法的な骨格も弱められたような感じを受けるのですが、欧米の評論家は「ヒンデミットの最も円熟した作品」のひとつにあげています。
 「交響的変容」の第4楽章は、主題を四手のためのピアノ曲「8つの小曲」の第7曲 Marcia maestosoから採り、最も戯作的な性格を持っています。曲は冒頭のトランペットとトロンボーンによる倣漫なファンファーレに始まり、木管楽器が行進曲の主題を奏します。この主題と共に情感豊かなホルン主題とで行進曲が構成されますが、初めのファンファーレを模した木管合奏でさらに展開部が始まります。まず主要主題が展開され、続いて副主題が緊迫しながら展開していきます。その頂点が直接再現部に続き、金管の主要主題を総奏で華やかに飾って終わります。

■「エグモント」序曲  作品84   

エグモントという人は史上に実在しました。ラモラル・エグモント(Lmoral Egmont)といい、1522年の11月18日に生まれ、1568年の6月5日に処刑されたオランダ人の貴族の出の軍人であり、政治家です。1557年から58年にかけてのフランスの対スペイン戦争に参加して武名をあげ、その後、オランダにおける新教の普及と、ネーデルランドの独立をはかり、1561年から64年にかけて、ヴィレム一世およびホールンとともにスペイン軍に抗しました。しかし、67年にアルバ公がオランダ総督に任命されて来て、エグモントは、ホールンとともに捕らえられ、翌年に処刑されました。ゲーテ(Johann Wolfgang Goethe 1749ー1832)はこの史実をもとにして、エグモンドを主人公にした非劇を書きました。そのあらは次のようになっています。スペインの圧政から逃れて独立しようとする、16世紀のオランダが背景となっていて、フランデルの領主エグモント伯は、その独立運動の指導者として登場します。スペイン王のフィリップ2世は、その弾圧のためにアルバ公をさしむけます。エグモントは、親友のヴィルヘルム・フォン・オラーニエンの忠告を聞かないで、無謀にもアルバ公に直言をしたために、捕らえられたうえに、死刑の宣告を下されてしまいます。愛人のクレールヒェンは、必死になってエグモントを救おうとするが、ついにその力はおよばず、自ら毒をあおいで死んでしまいます。その断頭台に引かれる寸前のエグモントは、ちょっとまどろむが、そのときクレールヒェンの幻影が現われて、彼を祝福し、目覚めたエグモントは強い足どりで刑場へと向う、ということになっています。作曲の経過ウィーンの宮廷劇場の支配人ヨーゼフ・ハルトル(Joseph Hartl)は、このエグモントを、ウィーンで初めて上演するために、その音楽をベートーヴェンに依嘱しました。ベートーヴェンは、1809年の暮れから翌年にかけて作曲しました。同年の8月21日の手紙に、「私はもう詩人に対する愛からのみで、エグモントを書きました・・・・・・」といっているくらいゲーテを敬愛していた彼は、いろいろな工夫をこらして、原戯曲の指定どおりに、序曲をふくめて、10曲の劇音楽を作りあげたのです。初演1810年の5月24日に、このベートーヴェンの音楽を使って行なわれました。その指揮はおそらくベートーヴェン自身がろう、ということです。演奏時間36分15秒(カラヤン指揮のLPによる)。楽器編成フルート2(第二フルートはピッコロと持替え)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、ティンパニ、そのほか、その8の「メロドラマ」では、小太鼓が舞台上で奏されます。その1とその4ではソプラノが加わる。解説まずヘ短調、2分の3拍子で、ソステヌート・マ・ノン・トロッポと指定された序奏部があります。これは全部 で24小節あって、フォルテで主音のヘ音を全楽器でユニゾンで奏して、開始され、第2小節目から弦楽器群が重々しく、しかも決然とした動機を呈示します。これを木管部がオーボエ、クラリネット、ファゴットの順で出てきてやさしく受けます。ここまでが繰り返され、ついでピアニッシモで第一ヴァイオリンが小さな弧線を描く新しい動機を呈示します。この形が繰り返され、木管楽器が加わって不安な気持を盛り上げてゆきます。主部は、アレグロ、ヘ短調、4分の3拍子で書かれています。序奏の部分のなごりがアレグロのテンポにのって、第一ヴァイオリンとチェロに4小節あって主要主題がチェロで呈示されます。まことの簡単きわまるものではあるが、それにもかかわらず、雄大で悲壮なエグモントの性格がにじみ出ているようです。経過の部分があって、クレッシェンドしてフォルテッシモでいよいよ悲しみをこめて、この主題が全合奏で第1と第2ヴァイオリンがオクターブで奏され、発展します。副主題はフォルテッシモの管弦楽部で開始され、木管部がやさしく受けるもので、この部分は序奏の部分から生まれたものであることはすぐにわかります。展開部ではヴァイオリンとヴィオラとが三連音符の連続で動く上に、管楽器群が主として、主要主題を断片的に変形させます。そう長いものではなくて、61小節ばかりです。呈示部は73小節です。そのあとに再現部が規則どおりに現われてきます。終結部はアレグロ・コン          ・ブリオとなってヘ長調、4分の4拍子でかかれています。前の部分とは気分ががらりと変わり、第一ヴァイオリンがいわゆる誘導動機として、まことに伸びやすい動機を呈示し、これがピアニッシモからクレッシェンドされて大きくふくれ上がり、新しい勝利の主題ともいうべき勇壮な主題が、全合奏の最強奏で出現します。そしてこれが壮大なクライマックスに導かれます。

■アルプス交響曲

リヒャルト・シュトラウス(1864−1949)は、その生涯に管弦楽のための大曲を12曲作曲しました。「アルプス交響曲 作品64」はその最後のものです。この”交響曲”と名付けられていますが、その前に書かれた「家庭交響曲 作品53」と同様、一種の交響詩ともいうべき標題音楽です。シュトラウスは創作のごく初期に2曲の”交響曲”を作曲しましたが、「アルプス交響曲」はその2曲とは全く異なった内容になっています。しかし、この曲が1915年10月28日に、作曲者指揮ドレスデン宮廷歌劇場管弦楽団(シュタ−ツカペルレ・ドレスデン)の演奏でベルリンで初演されると、たちまち評判となり、シュトラウスの作品でも「ドン・ファン」や「ティル・オイレンシュビ−ゲルの愉快ないたずら」と並ぶ人気曲になりました。

それは、この曲がアルプス登山の情景をきわめて具体的に描写しており、だれがきいても標題の示すところがよくわかるためなのでしょう。もちろん、シュトラウスの交響詩はそれぞれ具体的な描写を含んでいますが、それにしてもこの曲ほど明快なプロットをもっている曲はほかにはありません。しかし、シュトラウスはさすがに、この曲を単なる描写で終わらせてはいません。そこにあるのは自然への信仰であり、超自然的なものへの情景です。あるいは人間という存在が小さく孤独であることの表明でもあります。したがって、この曲は19世紀のロマン主義を集約したような音楽ということもできますが、シュトラウスが多くの題材で交響詩を書きつくした後に、このような作品を残したのは、実に意味深いものがあります。これは一般に映画音楽のようにも受け取られていますが、実のところ、そうではありません。

シュトラウス自身も、この曲を長い間あたためていました。彼が実際に作曲しはじめたのは、1914年の秋ですが、この曲の企画は既に1911年に始まっていたのでした。完成は1915年2月8日でこの曲をちょうど100日で書き上げたといわれています。シュトラウスが満50才のときの作品になります。当時の彼は、ベルリン宮廷(国立)歌劇場の音楽総監督をつとめており、指揮活動のほか多忙な活躍をつづけていたが、そのなかで、このような大作を完成したのは余程この曲に対する意欲をもっていたのでしょう。曲は未曽有の膨大な楽器編成を必要としますが、始終アルプス登山への情景を克明に音楽にしています。シュトラウスは晩年ガルミッシュの山荘に住みましたが、ミュンヘン生まれの彼は生涯、アルプスに親しみをもっていたのです。しかし、この曲はシュトラウス円熟期の作品らしく、単一楽章で作られながら、全体がみごとに理論的に構成され、緊密な造形でまとめられています。この辺に”交響曲”と名付けた作曲者の自負をうかがうことができますが、長大な全曲は大きく5つの部分にに分けることが可能です。すなわち、序奏部として、<夜・日の出>があり、主部は、<登山><頂上><下山>とア−チ型の形状をつくっています。そして終結部として<日没>と<夜>が全体を締めくくるのです。

楽器構成:フル−ト4(ピッコロ2)、オ−ボエ3(イングリッシュ・ホルン1)、ヘッケルフォ−ン、クラリネット4、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン4、チュ−バ4、トランペット4、トロンボ−ン4、バスチュ−バ2、ハ−プ2または4、オルガン、ティンパニ2、風音器、雷音器、鉄琴、シンバル、大太鼓、小太鼓、トライアングル、牧羊擬音、タム・タム3、チェレスタ、弦5部(最小18・16・12・10・8が必要)、舞台裏にホルン12、トランペット2、トロンボ−ン2。

序奏部  夜・日の出

<夜>(レント)はクラリネットとホルンが弱音器付の弦とともに静かに引き伸ばされるなかで、分奏された第1ヴァイオリンから弦がファゴットを伴って変ロ短調の音階で下降してゆきます。これが夜の動機です。それから金管で山の動機が現れ、それが発展して、山の姿が明確に浮かんできます。最後にハ−プの力強いグリッサンドで<日の出>にはいります。ここでほとんど全楽器の強奏によって現れる太陽の動機はチャイコフスキ−の「悲愴交響曲」の第1楽章の旋律によくにています。これに対比する旋律も現れ太陽に照らされた山の動機も姿を見せます。

第1部  登山

ここから曲の主部にはいります。<登山>である。元気のよい登山者の主題が低弦で歌われ、上昇していきます。これは山の動機から導き出されたものですが、全曲の主要主題となります。ホルンとトロンボ−ンで岩場の動機が繰り返され、舞台裏のホルンとトロンボ−ンが遠方の狩の角笛を描きます。それから登山者は<森に入る>のです。ハ短調の弦のアルペッショが木々のざわめきを表し、それにのってホルンとトロンボ−ンが森の動機を示します。これに登山者の主題も加わります。森の動機も変型されてゆきます。やがて登山者は<渓流のほとりを歩く>ことになります。川は流れ、ホルンが牧歌的な旋律を歌います。登山者の主題が変奏され、<滝にて>に移る。これは木管と弦の急速な6連符の下降とホルンとトランペットの岩場の動機からはじまり、ハ−プとチェレスタが水しぶきを描写するされます。このしぶきは<幻影>を呼び、ハ−プとヴァイオリンがグリッサンドの下降を反復します。終わり近くにホルンが歌唱主題を歌います。視界がひらけ、<花咲く草原にて>に移ります。チェロに で登山者の主題がでます。それから<高原の牧場にて>に変わりますが、ここでは、<日の出>の部分の旋律が素材として用いられています。牛の鈴やアルペン・ホルンがきこえます。ほかの旋律もアルプス風になります。しかし登山者は<藪と林を過ぎて道に迷う>ことになります。フ−ガ風の展開で、登山者の主題や岩場の動機などが対位法的に扱われます。すばらしい作曲技法が見られます。しかし登山者は進み、”岩”を越えると”山”がふたたび姿を現します。そして目の前には氷河が現れます。<氷河にて>はトランペットの氷河の主題ではじまる輝かしい部分です。しかし頂上を間近にして<危険な瞬間>もあります。岩場の動機と登山者の主題が交替して現れ、最後の難関を表現します。

第2部  頂上

管と弦の強奏和音に乗ってトロンボ−ンで頂上の主題が豪快に歌われます。つづくオ−ボエの独創はとぎれとぎれで登山者の敬虔な心情を描くようですが、山の動機と感謝の歌、太陽の動機、頂上の主題、歌唱主題などが雄大に歌われてゆきます。まさに全曲の頂点ですが、これは展開部でもあり、登頂の感動をみごとに表した壮麗な音楽です。登山者は喜びのあまり<幻影>を見ます。太陽の動機が現れ、山の動機が変奏されます。オルガンのペダル音も加わります。しかし山頂の気候は激変し、突然<霧が立ち昇る>ことになります。弦の上昇音型が連続し、霧が襲ってきます。そしてオルガンと第1ヴァイオリンに太陽の動機が出ますが、それは弱々しく、<太陽が次第に薄れる>さまを表します。弦と木管が<悲歌>(モデラ−ト・エスプレッシ−ヴォ)を歌い、登山者の不安も表現します。さらに<嵐の前の静けさ>となり、遠雷が聞こえてきます。頂上で出たオ−ボエの旋律がクラリネットに現れます。

第3部  下山

 <雷雨・下山>から第3部に移ります。主部の再現部です。管弦と打楽器、オルガンの強奏で雷雨が襲来します。登山者はあわてて山を下りてゆきますが、ここでは第1部に出た動機や主題が逆の順序で次々に出てきます。しかも主題の転回や短縮が行われており、登山者が急いで山を下りてゆく様子を表しています。この間も嵐がつづいています。きわめて劇的な音楽であり、雷音器が曲の頂点で用いられます。しかし、この嵐もやがて静まってきます。

終結部  日没・終結・夜

荘厳な<日没>です。山の動機が金管に現れ、太陽の動機が拡大・転回されて夕映えの輝きを表出すます。<悲歌>の旋律も出てきます。<終結>では太陽の動機に歌唱主題が加わり、安堵したような登山者の主題も姿を現します。<夜>である。”山”と”登山者”が明滅し、曲は静かに終わります。

 

■ウィーンフィルのためのファンファーレ

 1924年3月4日、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団は初めてフィルハーモニー舞踏会を開き、今日への伝統の口火を切っていますが、このオープニングのためにR.シュトラウスが作曲したのが、このファンファーレでした。その前年1923年にはウィーンフィルハーモニー管弦楽団の南米演奏旅行に同行、オーケストラと最良の関係を築き上げた作曲者と言えます。この作品は、6つのトランペット、8つのホルン、6つのトロンボーン、2つのテューバ、2つのティンパニのために作られており、ウィーンフィルのブラスの魅力をいかんなく引く出す華やいだ名作となっています。

 

■大学祝典序曲 op80

《大学祝典序曲》は、極めて対照的な内容を持つ二つの作品を同時に作曲するというブラームスの「性向」が示された管弦楽曲です。と言うのは、1880年の夏に避暑生活を送った北部オーストリアの鉱泉地イシュルで、沈鬱な《悲劇的序曲》と対を成す作品として書かれたからです。この作品は、1879年にブラームスがドイツのブレスラウ大学哲学部から名誉博士号を受けた答礼として筆が取られ、当時のドイツで歌い継がれていた4つの学生歌を素材にした接続曲風の形式で書かれたファンタジアです。ブラームスとしては例外的に、無邪気なほど快活で陽気な内容を持っていますが、全体の管弦楽法はブラームスらしい重厚で緻密なもので、珍しく多くの打楽器が用いられています。
 最初の学生歌〈我らは立派な校舎を建てた〉がトランペットとホルンによって荘重に奏されます。ここから曲想が明るくなり、続いてブラームスらしい抒情性が発揮された〈国の父親〉がのびやかに歌われたのち、「きつねの歌」と呼ばれる快活な〈新入生の歌〉(きつねはドイツでは新入生を指す)がファゴットでユーモラスに奏されます。引き続いて以上3つの学生歌が展開部に再現されて盛り上がり、最後に若者の大歓声がこだまするような〈ガウデアームス〉(喜びの歌)が力強く朗々と歌われ、祝典が最高潮を迎えたことを示して、華やかに閉じられます。
 彼自身は学徒ではなかったのですがブラームスはこれらの歌を気に入っており、学生歌が歌われているのを聞きつけては喜び勇んで歌の輪に加わるのでした。ブラームスは序曲が印刷される前に、すでに出版社に次のように書き送っています。「祝典はミリタリー・バンド用にも編曲されるべきだ。編曲についてもっと明るければ自分自身で試みるべきかもしれない」

■ シャブリエ

エマニュエル・シャブリエ(1841〜94)の音楽は、フランスでは、たいへん愛され親しまれているのですが、どうしたわけか、日本ではあまり人気がないようです。たまに演奏会でとりあげられても、狂詩曲<スペイン>と、<楽しい行進曲>が演奏されるくらいで、あとの曲はほとんど演奏されません。これでは人気があるもないもあったものではありません。演奏されなければ、理解されないのが当然です。
 シャブリエの音楽が、ことのほかフランス人に愛されているというのは、シャブリエが自国の音楽家というだけではなしに、シャブリエの音楽が、自由闊達で、洒落とユーモアにみちあふれているからです。裏を返せば、日本人はそれを解さないからともいえます。事実、日本人はユーモアのない国民として世界に知られています。これは国民性とはいえ、実に悲しいことだと思います。
 天才を、大型と小型に分けるとしたら、シャブリエは明らかに小型天才のなかにはいる人ですが、彼のおこなった大胆な音楽上の実験は、彼に続く多くの作曲家たちに、絶大な影響を与えています。ドビュッシー、ラヴェル、フォーレ、メッサジェ、アルベニス、アーン、フローラン・シュミット、ストラヴィンスキー、ミヨー、オーリック、プーランク、ロラン・マニュエル、アンリ・ソーゲ……こういった音楽家たちは、多かれ少なかれ彼の影響を受けています。その点、彼が尊敬したワーグナーと同じく、たいへんな子沢山だったわけです。
 この<シャブリエ:管弦楽曲集>は、シャブリエの芸術を理解するうえに、もっとも手近なアルバムです。だからこの際、シャブリエの歩いた道をたどりながら、その作曲された順に聴いてみるというのも悪くないでしょう。
 シャブリエは、1841年の1月18日、ピュイ・ド・ドークのアンベールに生まれました。ドヴォルザークは同じ年、チャイコフスキーは前の年、ビゼーは3年  前に生まれています。彼は、幼いときからピアノを学びましたが、それは、ただピアノのひきかたを習ったというだけではなく、もっと進んだ勉強をしたようです。しかし父親は、息子を、生活の不安定な音楽家にさせるよりは、老後の生活にも心配のない役人にさせようと、15歳のときパリに遊学させ、法律を勉強させました。そのころのシャブリエは、父親の意見にしたがって、ほんとうに、その一生を役人生活で送ろうと考えていたようです。1868年(27歳)、法学士になると、そのまま内務省にはいりました。しかし、そのころには、すでに和声学、対位法、フーガなどを、ひととおり身につけていました。彼は、平凡な役人生活には飽きたらず、つとめの余暇に、音楽をさらに深く突っ込んで勉強するようになり、ダンディ、デュパルク、フォーレ、メッサジェ、詩人のヴェルレーヌ、画家のマネといった気鋭の芸術家たちとつきあうようになり、音楽家への土台を、しだいに踏みかためていきました。こうして、まず手はじめに、喜歌劇<星>を作曲し、1877年(36歳)に発表しました。彼が職業音楽家として世間から認められたのは、このときです。それから2年後の1879年、彼はデュパルクにすすめられてミュンヘンにいき、そこでワーグナーの<トリスタンとイゾルデ>を聴いて電撃のようなショックを受け、音楽に全身全霊をささげる決心をするのです。1880年(39歳)、彼は18年間の役人生活に終止符を打ちました。彼の、自由芸術家としての門出は、合唱の指揮者としてでした。1882年彼はあこがれのスペイン旅行を試み、多くの民謡や舞曲の旋律を採譜しました。このスペイン旅行の所産が、シャブリエの音楽のなかでもっともポピュラーな狂詩曲<スペイン>でありました。この曲は、スペインから帰国するとまもなく、1883年(43歳)に作曲されました。スペイン的な旋律とリズムをたくみに使ったこの曲は、まさにスペイン情緒満点といってよく、シャブリエの才知が随所に閃いています。とくに、金管楽器の用法はすばらしいです。
 シャブリエは、ラヴェルと同じく、スペインをこよなく愛した作曲家でした。狂詩曲<スペイン>から2年後の、1885年(44歳)に作曲された<ハバネラ>も、彼のスペイン趣味を突如に示す名曲で、この曲の原曲はピアノ曲ですが、のちにシャブリエみずからオーケストラに編曲しました。何回か繰り返される主旋律は、まことに単純素朴なものですし、作法にもこれといった斬新さは見られませんが、その洒落た気分はシャブリエ独特のものです。
 1887年(46歳)に初演された喜歌劇<いやいやながらの王様>も、<グヴァンドリーヌ>に劣らぬほどの評判をとりましたが、残念なことに、わずか3回上演されただけで中止になってしまいました。オペラ・コミック座が火事で丸焼けになってしまったからです。もっとも、楽譜は焼けなかったので、その年うちにナシオン座で再演されたものの、シャブリエにとっては、まことにいまいましいできごとでした。この<ポーランドの祭り>は、第2幕の音楽で、まず、オーケストラの序奏があってから、野性的な感じの合唱にうつります。この曲の魅力は、なんといっても、その変化に富んだリズムと、色彩的な異国情緒にあります。
 不自由な体に鞭打って、彼が最後にとりかかった作品は、ついに未完に終わった歌劇<ブリゼイス>でした。ペンが思うように進まなくなったある日のこと、彼は、こんな手紙を書きました。「可哀そうな音楽、可哀そうな親しい友だち。お前は、もうわたしを幸福にしたくないのかい?しかし、わたしはお前が大好きなんだ。わたしは、きっと、これで死んでしまうかもしれない………」、なんと悲痛な手紙なのでしょう。ここには、音楽を愛しすぎて、ついにはその音楽に捨てられてしまった、素直な作曲家の打ちしおれた姿があります。
「音楽を非崇高化した、逆にいえば日常生活の感動を崇高化した」(ソーゲ)この天才は、1894年の9月13日、惜しまれながら世を去りました。まだこれからという53歳でした。

■歌劇『魔笛』序曲

生誕200年を迎えたモーツァルトの作品が長い時を越えて、現代の私たちの心を引きつけることに改めて驚きを覚えます。当時、教会や貴族の下でしか作曲家が生きていけない時代に、自由な作曲活動を求め苦悩した最期に作られたこの『魔笛』は、モーツァルトの音楽が集大成されているといえます。その歌劇の幕開けに演奏される序曲は、アダージョアレグロ、変ホ長調、2分の2拍子で、ゆるやかな部分と急速な部分からなっています。

まず、トゥッティの最強奏で、確乎たる和音が5たび力強く鳴りひびきます。やがて開始されるアレグロの主部は、ソナタ形式によるもので、フガートの第一主題がすすみ、総奏となってから、今度はこの第1主題を対立主題として、フルート、オーボエが対話をかわす第2主題にかわります。

展開部冒頭では、今度は3つの和音がみたびアダージョでもたらされるが、再びアレグロとなって2つの主要主題が展開されます。総奏により再現部となり第二主題も主調で、呈示部とはいくぶん異なった形で現われ、金管の音もはなやかなコーダとなって終わります。このアレグロの部分はアダージョに対して光明な世界、秩序の世界を示しているとかんがえられています。

 

■バレエ音楽 ”白鳥の湖”より

チャイコフスキーの作品中、圧倒的に人気のある「白鳥の湖」も、今からさかのぼること約百余年前の初演時は全くの酷評を受け、ついに生前にはその真価は認められなかったのです。                        
「白鳥の湖」には彼の音楽のもつ魅力、例えば旋律の美しさ、観客の心に優しくふれる哀愁を帯びたリリシズム、甘く感傷に満ちた情緒、登場人物の人間的描写、幻想的で豪華絢爛たる物語の詩的であると同時に演劇的な展開などの諸要素が全編に余すところなく盛り込まれています。         
 中でも最後を飾る第4幕の情景とフィナーレは、雄大で悲愴感に満ちた旋律で王子の登場を描き、ハープのアルペッジョで終わります。アレグロ・アジタートになりオーボエがせき込むように白鳥の主題を奏し、王子はオデットに自分の意志の弱さを詫び、許しを乞います。オデットも王子を許し、二人は相抱きます。      
 ロットバルトの主題が奏された後、白鳥の主題は無限の悲愴感をたたえて奏されます。これは白鳥の悲しい運命の動機です。オデットと王子は押し寄せる大波に巻き込まれ、湖に沈みます。モデラート・マエストーソで金管が白鳥の主題を力強く熱情的に奏し、二人の死を越えた愛の力が悪魔を征服したことを暗示します。モデラートの終結部は高音弦のトレモロにハープが下降的対位旋律を奏し、管弦楽の和音の全奏で終わります。嵐は静まり、月の薄明かりは強風のまき散らす雲を通して射し始めます。オデットと王子の魂は、白鳥達に見守られて昇天する......と言うものです。
この吹奏楽への編曲は、淀 彰によるもので「第3幕の情景」「スペインの踊り」「第4幕の情景」「フィナーレ」を演奏いたします。

●バレエを愛した作曲家チャイコフスキー

 あらゆるバレエ音楽を通じ、もっとも親しまれているのは、ロマンティックな《白鳥の湖》、《眠りの森の美女》の魔法の世界、軽快で幻想的な《くるみ割り人形》というチャイコフスキーの三大傑作でしょう。
 音楽家としての生涯を通じ、チャイコフスキーの心は、煩雑な交響曲形式よりも劇場音楽へと向けられていました。10歳の時に見たグリンカの《皇帝に捧げた命》によってオペラに目覚めた彼は、その感動を生涯変わること無く持ちつづけ、作曲家になったらオペラを手がけたいと強く願うようになりました。
 彼は9曲のオペラを作曲していますが、そのうち半数は《白鳥の湖》完成以前に作曲されています。《白鳥の湖》は、チャイコフスキーの名を不朽のものとした3大バレエ音楽の中で最初に作られたもので、これにつづいて《眠りの森の美女》と《くるみ割り人形》が作られました。         
 当時、オペラ同様バレエも音楽的創作に値すると考えていたのは、ロシア帝室劇場の作曲家の中でチャイコフスキーただ1人だけでした。彼のオペラには必ず舞踊音楽が取り入れられています。チャイコフスキーは、当時ロシアの劇場で演奏されていたバレエ音楽の一般的水準について、ほとんど見るべきものがないと考えていました。踊り自体がいかに素晴らしくても、帝室劇場のバレエ音楽作曲家、チェーザレ・プーニやルートヴィヒ・ミンクスらの、単に踊りを飾りたてたり、小器用に旋律を付けたりするだけの音楽には、軽侮の念を抱いていました。 作曲家セルゲイ・タエーネフが、《交響曲第4番》の楽節が「バレエ音楽的だ」といって避難した際にも「なぜ、それが否定的な意味を持つのか、全くもって理解しがたい。バレエ音楽、大いに結構」と反論しました。

 視覚と聴覚、踊りと音楽を、密接に関連させて統一のとれた全体を構成するのは難しいことです。バレエ音楽の場合には、さらに特殊で巧緻なテクニックが要求されます。その意味においては、チャイコフスキーのバレエ音楽に優るものはありません。チャイコフスキーはバレエをこよなく愛し、さらに標題音楽の作曲においても、新鮮な着想を得る才能に恵まれていました。《眠りの森の美女》と《くるみ割り人形》の作曲にあたっては、振り付け師マリウス・プティパの詳細な台本や注意書きに大いに啓発されました。たとえば《眠りの森の美女》で、オーロラ姫が指を刺す場面の指示はこうなっています。
「4分の3拍子(陽気になめらかに)で始まると、オーロラ姫は紡ぎ針をつか み、笏のように振る。会衆の皆に喜びを伝える姫(ワルツ24小節)。ところ が突如休止。痛みが走り、血がほとばしる!ここは4分の4拍子で8小節。も はやバレエにあらず。あたかも毒グモに刺されたかのように、恐れ乱心するオ ーロラ姫。ターンし、気を失う。要24〜32小節」

 

●バレエ組曲《くるみ割り人形》

《眠りの森の美女》がペテルブルグの初演で大成功を収めたため、このシーズンに、マリンスキー劇場で行なわれたバレエ興行全45回のうち、21回が《眠りの森の美女》の公演にあてられました。この成功に気をよくしたフセヴォロシスキーは、1幕物のオペラと2幕物のバレエをセットで作曲するよう、チャイコフスキーに依頼しました。こうして完成したのがオペラ《ヨランタ》とバレエ音楽《くるみ割り人形》でした。《くるみ割り人形》はホフマン作の物語の1つに題材をとったものです。
ドイツの小説家・作曲家であるエルンスト・アマデウス・ホフマンは、ドリーブのバレエ《コッペリア》に着想を与え、彼自身オッフェンバックのオペラ《ホフマン物語》の主人公にもなりました。
 1934年1月30日、ロンドンのサドラーズ・ウェルズ劇場で、アリシア・マルコヴァンとスタンレー・シャドソンによって、西側で初めてこのバレエの全幕公演が行なわれました。1944年以来、このバレエは全世界で愛され、特にクリスマスに各地で上演されています。
 ストーリーは、クリスマス・イヴに幼いクララが見た不思議な夢。その夢の中で、クララのくるみ割り人形は王子に変身し、彼女をお菓子の国へ連れていきます。このファンタジックな世界を表現するために、有名なアレクサンドル・ブノワをはじめ、多くのデザイナーが幻想的で華麗なセットの制作に意欲を燃やしました。
 バレエ《くるみ割り人形》に取りかかったチャイコフスキーは、仕事が進むにつれて熱中し、バレエの上演に先立って演奏会用組曲を発表しました。上演の9ヵ月前に発表した、作曲家自身の選曲による組曲を通して、バレエ音楽への興味が喚起されたのですが、なぜ組曲の発表が先になったのかは、今だにわかっていません。わかっているのは、わざわざパリから持ち帰った「秘密に楽器」チェレスタが他の作曲家たちに見つかるのを恐れていたことです。チリンチリンという鈴に似たチェレスタの音は、以来つねに「こんぺい糖の精」を連想させるようになりました。演奏が終わると同時に、組曲のほとんどの曲がアンコールを求められるほどでした。後年、組曲があまりにも人気を博したため、逆にバレエの方が組曲をもとにした編曲のように思われることもありますが、実際に組曲に使われたのは全体の4分の1以下にすぎません。
 クリスマス・イヴ、クララとフリッツの家のこと。〈小序曲〉では低音域の楽器を排除し、“おもちゃの国”を想起させます。両親がクリスマスツリーを用意していると、友達と一緒に子供たちが飛び込んできます。部屋に流れるのは軽快な〈行進曲〉。風変わりな紳士、ドロッセルマイヤー議員が、ぜんまい仕掛けの等身大の人形をもって到着します。この人形は子供たちのためにダンスを踊ります。クララは人形の形をした“くるみ割り”をプレゼントされます。その晩、お客が帰るとクララはベッドを抜け出し、くるみ割り人形を探しにいきます。するとハツカネズミの王様が率いるねずみの大群が現われます。ネズミと戦うため、くるみ割り人形は、おもちゃの兵隊を集め、戦争が始まります。クララがハツカネズミの王様をスリッパでたたき、くるみ割り人形を救うと、くるみ割り人形はハンサムな王子に変身し、お菓子の国にクララをつれていきます。
 2人はそこで“こんぺい糖の精”の歓迎を受けます。チェレスタのチリンチリンという音に合わせた魅惑的な短い《こんぺい糖の踊り》は、最もよく知られたバレエ曲の1つです。王子の命を救ったクララへのごほうびは、豪華な宴と“特徴のある踊り”(これが演奏会用組曲の大部分を占めます)の楽しい催し。〈アラビアの踊り〉「コーヒー」(“ゆっくりとした悩ましい音楽”がプティパの指示)、民族舞踊コサックをもとにした〈ロシアの踊りトレパーク〉、〈中国の踊り〉「お茶」(中国風のアレグレットで、東洋的な感じを出すため、“小さな鈴”を使用)、おもちゃの笛を使った田舎風の踊り〈あし笛の踊り〉や「32人の道化師の踊り」などが披露されます。こんぺい糖の精の従者が踊る〈花のワルツ〉につづき、こんぺい糖の精と王子の踊りがあります。フィナーレの踊りには全員が参加、不思議な夢の終幕を、華やかなものとします。
 バレエの終わり方には様々な形がありますが、くるみ割り人形を抱えたクララがツリーの下で眠っており、一夜の夢も終わったというのが、最も一般的です。

■クラリネット小協奏曲 変ホ長調 

この曲は、クラリネットを協奏曲風あるいは室内楽や独奏風に活用したウェーバーの6曲の一連の作品の最初のものにあたります。そのうち6曲までは、ミュンヘンの宮廷管弦楽団のすぐれたクラリネット奏者のベールマンの存在を意識して作曲されたものです。

第1楽章は、アダージョ・マ・ノン・トロッポ ハ短調 4分の3拍子で、伝統的な形式にとらわれずに自由に書かれています。力強く総奏ではじまり、やがて冒頭のような強烈さをふたたびみせることなく、この楽章は静かに終り、そのまま次の楽章に接続します。

第2楽章は、アンダンテ 変ホ長調 2分の2拍子。呈示が終ると突然フォルティッシモで前の楽章の冒頭の動機を借用して、間奏風の部分にはいります。つづいて、独奏クラリネットを大きな波のように活動させます。これが一段落すると第1変奏となり、第二変奏ではクラリネットの動きはさらに細かくなります。

第3楽章は、アレグロ 変ホ長調 8分の6拍子。クラリネットを伴った軽妙で短い導入ののちに、主要主題が呈示されます。この楽章は、この主題をもとにしたロンドに近い自由な形をとっていますが、対比的な副主題をまったく重要視していません。独奏クラリネットは巨匠的な技巧を要求し、しばしば音階的に動きます。

●スペインの香気を湛えた大家、トゥリーナ

ホアキン・トゥリーナ(1882〜1949)は、マヌエル・デ・ファリャと並んで今世紀前半のスペイン楽壇を主導した存在であり、生前から大家として遇されていました。没後、彼に対する評価が時として分かれ「音によるスペインの風俗画家」というキャッチフレーズ的寸評のうちにも、賛美あるいは軽い揶揄、二様のニュアンスが込められてきたのは事実です。しかしトゥリーナがひとつの時代、ある世代を代表するとともに紛れもない個性の香を具え、同時に優れたメティエ(専門技術)を身につけた作曲家であった事実もまた隠れもないことです。彼の作品から匂い立つ情緒は確かにかけがえのないものです。

アンダルシア(南スペイン)第1の都会、1992年には万博が催されて改めて世界注目を集めたセビーリャ(セビリア)。トゥリーナは幾つもの名作オペラの舞台にもなったこの“伝統と祭りの都”に生を享けました。初めて手にした楽器はお“手伝いさんがプレゼントしてくれた”アコーディオンだったということですが、やがてピアノを習い和声学や作曲も学びました。15歳の時セビーリャでピアニストとしてのデビューを飾り、20歳の時マドリードへ赴いて首都の王立音楽院で学び直しました。さらに3年後の1905年にはパリ留学を果たし、ヴァンサン・ダンディーのひきいるスコア・ラントルムに入って研鑽を積みました。パリには結局1914年の第1次世界大戦勃発に至るまで滞在し、その間ダンディーのほかデュカス、ドビュッシー、ラヴェル、シュミットなどそれぞれの作風を異にする近代フランスの大家たちに触れて、大いに得るところがありました。 しかしそうした彼に決定的な影響を残したのは22歳年長の同国人、既にパリ暮しの長かったイサーク・アルベニス(1860−1909)でした。

ある集いでトゥリーナ<Op.1>にあたるピアノ五重奏を聴いたアルベニスは、“あまりにもセザール・フランク風”に書かれたこの曲を「よく書けている」と称賛し、自分が費用を持ってその楽譜を出版するという厚意を若い後輩にし示す一方、「たとえ世界的な視野に立つものであれ、飽くまでも“スペイン音楽”を創りだそうとする姿勢を忘れぬよう‥‥‥」と親身な忠告を与えました。この忠告はトゥリーナに深い衝撃と啓示を与えました。彼の<Op.2>であるピアノのための組曲《セビ−リャ》には、もはや十分スペインの香が湛えられています。それ以後のトゥリーナは、近代的な民族主義楽派に立つ作風を生涯にわたって変えることはありませんでした。そこには故郷セビーリャにちなむそれを初め、スペイン的な情緒が常に盛られ、しかもそれがスコラ・カントルムで学んだ構成力、ドビュッシー・ラヴェル以下に倣った感性豊かな和声法や楽器法と、高度に融け合わされていました。才能の多くの部分がピアノ独奏曲、歌曲など小規模で内密な情感を伝えるジャンルに発揮されたのは事実ですが、また一方、スペインには実りの少なかった管弦楽の分野にも、たとえば《セビーリャ交響曲》(Op.23,1920)というすぐれた果実を生み出しています。

「幻想舞曲集」は、スペイン情緒豊かなピアノ曲として1920年に発表されましたが、のちに管弦楽に編曲されました。それぞれ第1曲“Exaltaciセn"第2曲“Ensueフo"第3曲“Orgヒa"と副題がつけられ、“Orgヒa"には次のような注釈が付けられています。「花々の香りがワインの匂いとまじり合い、比類ない酒を満たした細長いグラスの奥から、歓びが香のようにたち昇ってきた」

南スペインのアンダルシア舞曲のリズムなど、スペイン音楽が随所にちりばめられたこの曲集を吹奏楽版に編曲したのは、ジョン・ボイドで、アメリカのアソシエイティッドミュージック社から出版されています。

 

■『交響曲第5番』より 第4楽章

この交響曲第5番二短調は、1937年に作曲されたもので、ショスタコーヴィチがブルジョア的であるとの批判にこたえた作品です。この第4楽章は、原調の二短調で吹奏楽に編曲されて広く演奏されています。
二短調の和音の中から、ティンパニーが主音と属音を8分音符できざみ、その上に金管が突進するような第1主題を奏します。この主題は、のちに2倍、4倍に拡大されて奏されています。
 中間部ではゆっくりとして流れるようなテーマも現れますが、再びティンパニーの8分音符のリズムの上に2倍に拡大された第1主題が再現され、そのあと4分の3拍子の部分を経てコーダにはいります。ここでは上声部の楽器が8分音符のリズムを奏し、金管とティンパニーが応答しながら、最後のクライマックスをつくります。   

 

■交響詩『ローマの松』より 「アッピア街道の松」

この曲は、「ローマの泉」を作曲してから8年後の1924年、彼が45歳のときの作品です。この曲からレスピーギが、古代ローマへの深い回想の気持ちをもっていたことが、よくあらわれています。

‥‥ローマから東南にのびるアッピア街道はその昔たえずローマの軍隊が南下し、凱旋した街道で、その両側には下の枝のない、上にぽっちゃり丸まった形の松がずっと並んでいる‥‥曲はこの街道を行進するローマの軍隊の幻想を描いています。 第三楽章から切れ目なしに、重い足どりの行進曲がはじまり、次第に朝もやの中に軍隊の行進が浮かび上がり、バンダ(トランペットとトロンボーンの別動隊)も加えてどんどん盛り上がってゆく感動的な楽章です。

■行進曲「威風堂々」第一番

 この曲のタイトルはイギリス人がよく好んで引用するシェイクスピアに由来しており、「オセロ」の台詞からとられています。エルガーはこの軍隊行進曲を5曲セットで作曲しました。この第1番は中間部の親しみやすい旋律のため5曲中で最もよく知られています。ロンドンで初演の際は熱狂した聴衆のために3度のアンコール演奏がされ、時の国王エドワード7世はエルガーに語りかけ、中間部の旋律を指差して「君この節はいずれ世界に広まるだろう」と絶賛し、これに歌詞を付けることを勧めました。この「希望と栄光の国」は第2の国歌として英国国民に親しまれています。

■組曲「ガイーヌ」より

プロコフィエフやショスタコービッチとともにロシア楽檀を代表する作曲家であるA.ハチャトゥリアン(1903〜1978)の代表的なバレエ音楽がこの「ガイーヌ」です。1943年に2度目のスターリン賞を獲得した名曲で郷土色が濃く、管弦楽の色彩がことのほか美しく物語は劇的な起伏に富み、音楽と踊りとドラマが見事に一体化されたバレエです。                 作曲を始めたのは、1941年の晩春で第二次世界大戦のさなか、レニングラード国立キーロフ、オペラ、バレエ劇場の疎開先のペルムで仕事に着手し、そこで完成されました。                           

1.序奏

打楽器のクレッシェンドと金管楽器のファンファーレにより、いかにもロシアバレエらしい英雄的な気分のうちに始まります。豪快な序奏です。       そして山間の村を舞台とする若い狩人の行進曲の部分に移りますが、この部分は、ホルンやトランペツトの後打ちが特徴的な力強い行進曲です       A友情の踊り                               狩人である力強い勇敢なアルメンと、血気盛んなゲオルギーの友情を描く舞曲です。

2.アイシャの孤独・剣の舞

孤独なアイシャのテーマの次に演奏される舞曲が、全曲中でもっとも有名な剣の舞です。精悍な高地民族のクルト族が出陣の際に踊る一種の戦闘舞曲であり、強烈なリズムをもつところから、ポピュラー音楽としてもしばしば演奏されます。打楽器を中心とした印象的なリズムのプレストによる強奏に続いてホルンと木琴に伴奏されたメロディーが現われます。中間部はサキソフォンが4分の3拍子のメロディーを奏し、再び冒頭に戻ります。

3.収穫祭

終幕は山間の村、村人たちの収穫の祝いです。初めホルンについでトランペットや木管楽器にファンファーレ風なメロディーが現われ、祭りの雰囲気がかもし出される喜びにあふれた曲です。

■ハンガリー狂詩曲 第2番      

 ハンガリーの音楽好きの貴族として有名な、エステルハージ候の私領管理人を父として、オーストリアの国境に近いランディングに生まれたリストは音楽を愛し、自らもピアノをたしなんだ父の影響もあって、早くから天分を現しました。おそらく彼が少年期にハンガリーの民族音楽を身につけていたのは疑いありません。そのハンガリー民謡の代表的な「チャルダーシュ」をの形式である〈ラッサン〉と呼ばれる荘重で緩やかな部分と〈フリスカ〉と呼ばれる原始的とも言える激しいリズムを持つ激しい部分を持つこの曲は、ハンガリー民族音楽の特徴が最も豊かであり、そしてリストはピアノの最大効果をこの曲に傾けているため自然管弦楽を聴く思いがします。しかも哀愁を帯びたものや軽快なものなど様々な旋律が走馬灯のように相次いで現われるなど、単に「ハンガリー狂詩曲」のみならず、リストの全作品の中でも最も人々に愛され、楽しまれる要素は十分備わっています。

■吹奏楽のための行進曲 変ロ長調 作品99 /S.プロコフィエフ

ロシアの作曲家S・プロコフィエフは吹奏楽のための行進曲を3曲(うち1曲は更に4つの行進曲からなる)作曲していますが、その中でもっとも新しく1943〜44年に作曲されたのがこの「変ロ長調、作品99」です。この曲は技巧的な楽句をもち、中間部には豊かな旋律も現れるため、実用的な行進曲というよりはむしろ演奏会に適した行進曲であると言えます。

■バレエ組曲「ロデオ」より4つのダンスエピソード /A.コープランド

「ロデオ」はアメリカ西部の牧場で、荒馬を乗り回したり、投げ縄を投げて 牛を捕えたりしてカウボーイ達が妙技を競うロデオの祭を背景に、牛飼娘と意気のいいカウボーイとのロマンスが描かれている1幕バレエです。コープラ ンドは1942年9月に「ロデオ」の音楽を完成しました。この年の秋、彼はバレエ曲 から「4つのダンスエピソード」と称するバレエ組曲を編集しました。この組曲は次 の4曲から成っていて、

第1楽章 カウボーイの休日 (Buckaroo's Holiday)西部民謡を用いてカウボーイの休日の楽しさが描かれます。第1主題は西部民謡 `Sis joe' で、第2主題といってもよい重要なエピソードは `If He'd Be a Buckaroo by His Trade (彼の仕事がカウボーイだったらなあ)' からとら れています。なお原題の「バッカルー」は西部の俗語でカウボーイのことです。

第2楽章 牧場の夜想曲 (Corral nocturne)は家畜たちも寝静まった牧場のノクターンです。オーボエのソロで出される中心的な旋律が牧場の雰囲気をかもし出しています。西部民謡は用いられずに、コープラ ンド自身の創作によっています。原題の「コラール」は「畜舎」のことです。

第3楽章 土曜日の夜のワルツ (Saturday night waltz)は導入部をもつ3部形式のスローワルツです。最初オーボエによって奏されるワル ツ主題はとても魅力的で忘れがたい。第4楽章 ホーダウン (Hoe down)「ホーダウン」はアメリカ西部の民謡に合わせて踊る陽気で活発な踊りです。ここでは `Bonyparte' と `Mcloed's Reel' の2つのスクエアダンスのふしがロンド風に用いられています。

民謡を主題とした《スコットランド風行進曲》

《スコットランド風行進曲》は、ドビュッシーの受けた最初の委嘱作品で、20代の最後の1891年、イギリスのメレディス・リート将軍の依頼によって作曲さました。当時のドビュッシーは、パリのロンドン街42番地のピアノとベッドだけという貧しい屋根裏部屋に住んでいましたが、1891年のある日、なんの前ぷれもなく一人の英国紳士がこの部屋を訪れます。この紳士がリート将軍で、将軍はこのほとんど無名の作曲家に、自分の家系の記念のための作曲を依頼したのです。

 1891年にドビュッシーが完成したのは、4手のためのピアノ音楽で、《むかしのロス伯爵家の人々の行進曲、彼らの末裔、贖主である王のレジョン・ドヌール最高勲章をもつメレディス・リート将軍に献呈さる》というひじょうに長いタイトルがつけられていました。そしてこの4手のためのピアノ曲のスコアには、次のような長い文章がエピグラフとして書きこまれています。〈スコットランドのロッシャイアー地方のロスの氏族の首長、ロス伯爵家の起こりは、最もむかしの時代にまで遡る。この首長は、一団のバグパイプを吹く人々に囲まれていた。彼らはこの行進曲を、戦さの前と最中と宴会の日々に、彼らの王の面前で演奏した。この素朴な行進曲は、実際の行進の合唱隊である〉。

 この4手のためのピアノ曲は、1891年に上記のタイトルとエピグラフをつけてシュダン社から出版されましたが、1903年フロモン社から再度出版する時に《民謡を主題としたスコットランド風行進曲》というタイトルに改題されました。さらに1908年頃にドビュッシーは、ピアノ曲からオーケストラ曲への編曲をおこない、このオーケストラ曲は、ドビュッシーの晩年の1913年4月19日、シャンゼリゼ劇場の〈ヌーボー・コンセール〉でD.E.アンゲルブレックの指揮によって初演されました。この初演に立ちあったドビュッシーは、〈うん、しかもきれいじゃないか!〉と語ったと伝えられています。

 作品企体は3つの部分にわかれている。まず第1部は、4分の2拍子のアレグロ・スケルッァンドで、バグパイプを思わせる軽快な音楽で開始され、急に〈静かに、メノ・モッソ〉という甘美な第2部に移る。4分の2から8分の6拍子に変った第3部で、テンボもしだいにはやくなり、アレグロ・ヴィヴォの輝かしい書楽で全体をしめくくる。
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●編曲者より(定期演奏会パンフレットより転載)
 この曲は広く知られている印象派ドビュッシーの大作とはひと味違った趣である。若き日のドビュッシーが名曲を生み出していくずっと前の頃、そんな後の才能の萌芽を聴くことができる。またフランス的な中にも鄙びたスコットランドの香りを楽しむことのできる作品でもある。このような比較的知られていない佳曲にこそヨーロッパ音楽のもう一つの魅力を見い出したいと願って書き下ろした訳である。
 吹奏楽への編曲に当たってはデリケートでやや薄めのオーケストレーションのニュアンスを失うことなく、管楽合奏の機能を十分に引き出せるよう書いたつもりである。また、宇治シティーフィルの様な技術的に心配のないバンドでなくとも一定のまとまった音が得られるように配慮を行った。加えて鍵盤打楽器等の活用で弦楽器の持つピッツィカートやトレモロの表現を助けるようにも努力した。
 宇治シティーフィルハーモニーの充実した響きと高い技術に裏づけられた素晴らしい演奏に心から期待を寄せたいと願う。

瀬 浩明
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